12月7日は、風邪を引いたので、お休みしました。
風邪は、父に移した様で、今度は、父が不調で寝ています。
そんなこんなで、山荘は、いまいち元気がないのだけど、もも、だけは元気です。
おやすみ。
2008年12月13日土曜日
2008年12月6日土曜日
神様の人間性
最近の神様は、人間性豊かである。
「デスノート」のデューク、「死神の精度」の千葉、「夢をかなえる象」のガネーシャ、どれも神様とは思えないほどの、神様たちだ。
もっとも、日本の神様は、恐れ多いというイメージがつよいけど、ギリシャ神話に登場する神々は、人間くさい。
ナルシストもいるし、うぬぼれやもいるし、自己顕示欲の強い神様たちがわんさかいる。
そのあたりは、日本では、むしろ怪物、妖怪たちのイメージだ。
現代日本で、神様が人間に近づいた存在になってきているというのは、人間が孤独だからなのだろうか。
「デスノート」のデューク、「死神の精度」の千葉、「夢をかなえる象」のガネーシャ、どれも神様とは思えないほどの、神様たちだ。
もっとも、日本の神様は、恐れ多いというイメージがつよいけど、ギリシャ神話に登場する神々は、人間くさい。
ナルシストもいるし、うぬぼれやもいるし、自己顕示欲の強い神様たちがわんさかいる。
そのあたりは、日本では、むしろ怪物、妖怪たちのイメージだ。
現代日本で、神様が人間に近づいた存在になってきているというのは、人間が孤独だからなのだろうか。
2008年11月30日日曜日
夢をかなえる象の秘密の秘密
今、夢をかなえる象も読んでいるし、夢をかなえる象も見ているし、夢をかなえる象の秘密も読んでいる。
てなわけで、夢をかなえる象尽くしの毎日な訳だ。
夢といえば、声優なのだけど、そのために、ピアノやボイストレーニングのレッスンもしている。
でも、父、太郎曰く、国語力や、社会の仕組みだけでなく、人生そのものが勉強だという。特に声優であれば、扱う材料は、なんでもありだ。もちろん、人は、何でも知っているわけではないから、そのなかでも、得意な分野に偏ることになる。どの分野に偏るにしても、はやり、人の人生を描くことになるのだから、人生そのものが勉強であるという。
そんなに、難しい人生なんて、歩きたくないぞ。
歴史、音楽、アニメなんかが交錯する部分の領域がよいのだけど、倍率、高そうだな。
てなわけで、夢をかなえる象尽くしの毎日な訳だ。
夢といえば、声優なのだけど、そのために、ピアノやボイストレーニングのレッスンもしている。
でも、父、太郎曰く、国語力や、社会の仕組みだけでなく、人生そのものが勉強だという。特に声優であれば、扱う材料は、なんでもありだ。もちろん、人は、何でも知っているわけではないから、そのなかでも、得意な分野に偏ることになる。どの分野に偏るにしても、はやり、人の人生を描くことになるのだから、人生そのものが勉強であるという。
そんなに、難しい人生なんて、歩きたくないぞ。
歴史、音楽、アニメなんかが交錯する部分の領域がよいのだけど、倍率、高そうだな。
2008年11月29日土曜日
ももとおと
我が家の猫、ももはとても臆病である。
とにかく、音に弱い。その臆病ぶりは、なまはんか、ではない。
誰かが、物を落としたり、椅子を動かしたり、ちょっとでも、音が聞こえようならば、身構え、臨戦態勢である。音のあるところに、敵がいるかでもあるように、すばやく、体制を整える。
それに引き換え、山荘の住人、というか、人は、音に鈍感になっている。
日ごろから、音、それも雑音のある生活に慣れている。
人の生活では、何かしら音のするものだ。それも、人工的な音が多い。代表格は、車の音だ。それほど、車は生活に欠かせないものなのだろう。
それでも、夜になれば、さすがに、自然の音が聞こえる。
とくに、夜には、風の音がする。自然の音は、意識して聞くことがある。けれども、人工的な音は、意識して聞きたいということはなく、むしろ、音がしていても、まったく聞いていないという状態なのだろう。音のことなど、すぐに忘れてしまうのだから。
とにかく、音に弱い。その臆病ぶりは、なまはんか、ではない。
誰かが、物を落としたり、椅子を動かしたり、ちょっとでも、音が聞こえようならば、身構え、臨戦態勢である。音のあるところに、敵がいるかでもあるように、すばやく、体制を整える。
それに引き換え、山荘の住人、というか、人は、音に鈍感になっている。
日ごろから、音、それも雑音のある生活に慣れている。
人の生活では、何かしら音のするものだ。それも、人工的な音が多い。代表格は、車の音だ。それほど、車は生活に欠かせないものなのだろう。
それでも、夜になれば、さすがに、自然の音が聞こえる。
とくに、夜には、風の音がする。自然の音は、意識して聞くことがある。けれども、人工的な音は、意識して聞きたいということはなく、むしろ、音がしていても、まったく聞いていないという状態なのだろう。音のことなど、すぐに忘れてしまうのだから。
2008年11月24日月曜日
何もしない何も足さない
父、太郎の何もしないときの何もしない加減は、徹底している。
3連休に、どこにも行かないのだ。
ただ寝ている。
そのせいであろう、休み明けに仕事に行くと、足に負担がかかるのだという。
何もしないときは、本当に何もしない。
ひげもそらないし、頭も洗わないし、寝まきのまま動かないのだ。
それでもって、「とっても、省エネ」とか言っている。
確かに、省エネではあるが、それで生きている甲斐があるということにはならないのではないだろか。
それでもって、「人間、いつも、もてる力を精一杯発揮するのが良いとは限らない」なんてこともいう。
父、曰く、「ここまで、自分を制御するということもやってみると快感になる」のらしい。いったいどんな快感があるのだろう。睡眠も、3日間も、とり溜めておくなんてことができるのだろうか?
父は、特異体質なのだろうか?
3連休に、どこにも行かないのだ。
ただ寝ている。
そのせいであろう、休み明けに仕事に行くと、足に負担がかかるのだという。
何もしないときは、本当に何もしない。
ひげもそらないし、頭も洗わないし、寝まきのまま動かないのだ。
それでもって、「とっても、省エネ」とか言っている。
確かに、省エネではあるが、それで生きている甲斐があるということにはならないのではないだろか。
それでもって、「人間、いつも、もてる力を精一杯発揮するのが良いとは限らない」なんてこともいう。
父、曰く、「ここまで、自分を制御するということもやってみると快感になる」のらしい。いったいどんな快感があるのだろう。睡眠も、3日間も、とり溜めておくなんてことができるのだろうか?
父は、特異体質なのだろうか?
2008年11月23日日曜日
小春日和
このところ、朝晩、冷え込む。
だから、今日のように、暖かな日差しは、温かさ以上に、温かく感じる。
”もも”は、南の窓側のすぐそばで日差しを全身に浴びて、寝転んでいる。
紅葉の季節である。山荘の数本のもみじは、赤く、茶色く、色づいている。もう、今にも落ち葉に変身しそうだ。
柿の木に実っている柿も目立つ。葉が落ち、実のみの赤が目立つ。
柑橘系の実は、黄色く色づいている。
けやきの葉は、薄黄色にから、さらに、茶色になろうとしている。
他にも、名の知らぬ木々も、赤や黄色に色を変えている。
今日のように、秋の日差しの中で、色のいろいろが、彩をもって、個性溢れているのが秋である。
だから、今日のように、暖かな日差しは、温かさ以上に、温かく感じる。
”もも”は、南の窓側のすぐそばで日差しを全身に浴びて、寝転んでいる。
紅葉の季節である。山荘の数本のもみじは、赤く、茶色く、色づいている。もう、今にも落ち葉に変身しそうだ。
柿の木に実っている柿も目立つ。葉が落ち、実のみの赤が目立つ。
柑橘系の実は、黄色く色づいている。
けやきの葉は、薄黄色にから、さらに、茶色になろうとしている。
他にも、名の知らぬ木々も、赤や黄色に色を変えている。
今日のように、秋の日差しの中で、色のいろいろが、彩をもって、個性溢れているのが秋である。
2008年11月22日土曜日
壊れるとき
父、太郎は、このところ、難しい顔をしている。
”ちょっとしたこと”で、物事は壊れるという。
一つの歯車が壊れたなら、すぐに直さないといけないという。
そのまま放置すれば、その壊れた歯車のみならず、全部が壊れてしまうという。
”癌”が発見されたなら、すぐに削除しなければならないという。
そのまま放置すれば、やがて、体中に癌が転移し、死ぬのだという。
日本は、おかしいことをおかしいと認識しても、そのまま手立てを打たない国であるという。その結果、全体がおかしくなる。
全体がおかしくなるとき、その前に、一部を助ける機能をもってはいる。
それは、おかしくなった部位ごと切断する機能である。
確かに、そのおかしくなった部位を切断することで、残りは助かる。けれども、その切断した機能は、取り戻すことは出来ない。
”ちょっとしたこと”で、物事は壊れるという。
一つの歯車が壊れたなら、すぐに直さないといけないという。
そのまま放置すれば、その壊れた歯車のみならず、全部が壊れてしまうという。
”癌”が発見されたなら、すぐに削除しなければならないという。
そのまま放置すれば、やがて、体中に癌が転移し、死ぬのだという。
日本は、おかしいことをおかしいと認識しても、そのまま手立てを打たない国であるという。その結果、全体がおかしくなる。
全体がおかしくなるとき、その前に、一部を助ける機能をもってはいる。
それは、おかしくなった部位ごと切断する機能である。
確かに、そのおかしくなった部位を切断することで、残りは助かる。けれども、その切断した機能は、取り戻すことは出来ない。
2008年11月16日日曜日
妙手
父、太郎に、最近、読んだ本を聞いてみた。
「のぼうの城」、「忍ぶの国」、「食い逃げされてもバイトは雇うな」、「「食い逃げされてもバイトは雇うな」なんて大間違い」の4書の名があがった。
「のぼうの城」は、3人の異なる技量を持つ武将が、その技量を用いて城を守る。「忍ぶの国」では、伊賀の国の人の考えの中心は金であり、その金のために、最終的に多くの人が死ぬ。「食い逃げされてもバイトは雇うな」では、数字の意味が重要であるということ。「「食い逃げされてもバイトは雇うな」は大間違い」では、物事には、必ず、良い面と悪い面があるということなど、複数の視点を持ち、質的進歩を目指すことなどが書かれているのだという。
この4書に共通していることは、「妙手」を考え付いたものが勝つということであるという。「妙手」は、事象を考え行くことから生まれてくる有効な手段のことを呼ぶのだそうだ。
「「妙手」を得るには、どうしたらいいの?」と聞いたら、それは、「人生を賭ける事」だと言う。
「のぼうの城」、「忍ぶの国」、「食い逃げされてもバイトは雇うな」、「「食い逃げされてもバイトは雇うな」なんて大間違い」の4書の名があがった。
「のぼうの城」は、3人の異なる技量を持つ武将が、その技量を用いて城を守る。「忍ぶの国」では、伊賀の国の人の考えの中心は金であり、その金のために、最終的に多くの人が死ぬ。「食い逃げされてもバイトは雇うな」では、数字の意味が重要であるということ。「「食い逃げされてもバイトは雇うな」は大間違い」では、物事には、必ず、良い面と悪い面があるということなど、複数の視点を持ち、質的進歩を目指すことなどが書かれているのだという。
この4書に共通していることは、「妙手」を考え付いたものが勝つということであるという。「妙手」は、事象を考え行くことから生まれてくる有効な手段のことを呼ぶのだそうだ。
「「妙手」を得るには、どうしたらいいの?」と聞いたら、それは、「人生を賭ける事」だと言う。
2008年11月15日土曜日
思考力
父、太郎が、受験生が読むような本を読んでいた。
「数学嫌いでも「数学的思考力」が飛躍的に身に付く本!」という2時間ドラマのタイトルと似通った発想でもありそうなタイトルの本である。
要点は簡単だ。
論理的思考の展開、展開の歩幅
起こりえる可能性の確率、骨太さ
全体像を見渡す事のできる基礎
総合的判断できる論理洞察力
自分の能力に欠けている部分
客観的に物事を見る能力
仮説と検証を繰り返す作業
本当の意味、本質を見抜く
身近なニュースを題材にとり、わかりやすく説明している。父くらいの歳になっても、こんな本読むんだね。
「数学嫌いでも「数学的思考力」が飛躍的に身に付く本!」という2時間ドラマのタイトルと似通った発想でもありそうなタイトルの本である。
要点は簡単だ。
論理的思考の展開、展開の歩幅
起こりえる可能性の確率、骨太さ
全体像を見渡す事のできる基礎
総合的判断できる論理洞察力
自分の能力に欠けている部分
客観的に物事を見る能力
仮説と検証を繰り返す作業
本当の意味、本質を見抜く
身近なニュースを題材にとり、わかりやすく説明している。父くらいの歳になっても、こんな本読むんだね。
2008年11月9日日曜日
秋桜
「秋の桜」というと「コスモス」を思い起こす人もいるだろう。
でも、狂い咲きというか、季節の秋に外れに咲く桜の花のことです。
山荘にも一本、秋桜がある。
いま、咲いている。
山荘のはずれで咲いている。
ひっそりと咲いている。
なんか、秋の空のどんよりとした感じというか陽の弱い感じに似合った桜だ。
色も薄いし、小さめだし、咲きようも、まばらだし、弱弱しい感じが漂う。
鰯雲なんかに似合うのだろうな。
でも、狂い咲きというか、季節の秋に外れに咲く桜の花のことです。
山荘にも一本、秋桜がある。
いま、咲いている。
山荘のはずれで咲いている。
ひっそりと咲いている。
なんか、秋の空のどんよりとした感じというか陽の弱い感じに似合った桜だ。
色も薄いし、小さめだし、咲きようも、まばらだし、弱弱しい感じが漂う。
鰯雲なんかに似合うのだろうな。
2008年11月8日土曜日
桜の葉の落ちる頃
桜の葉も散り、一木に数枚、それでも、まだ、散らずにある。
雨の日には、やけに痛々しい。
雨よ、そんなに、いじめるものではない。
風がないのがせめて目の救いかな。
風よ、優しく撫でてあげて。
やがて、桜の葉が、一枚、ゆっくりと、落ちた。
雨の日には、やけに痛々しい。
雨よ、そんなに、いじめるものではない。
風がないのがせめて目の救いかな。
風よ、優しく撫でてあげて。
やがて、桜の葉が、一枚、ゆっくりと、落ちた。
2008年11月3日月曜日
信用してはいけないものには、実体と言葉の乖離がある
経済で、実体経済と金融経済の乖離が大きくなりすぎると破綻する。
父、太郎がいうことであるが、何も、これは経済のみならず、実質と資金の関係が乖離すると、よくならなくなるという。
たとえば、お役人が、国民、都道府県民、市町村民のためになることといいながら、その実、お役所のためになることを優先させているのである。だから、お役所はつぶれないが、民間の生活は苦しくなるのである。
とたえば、弁護士は、法治国家であることを強調する。裁判の有用性を説く。当事者同士で物事が解決したら、お金にならないからである。
たとえば、医者は、心配の目を全て払拭するという理由で、必要以上の医療行為をしたがる。でも、必要以上の医療行為をすれば、医者が儲かるというのが事実である。
たとえば、詐欺は、あなたのためといいながら、詐欺する人の自分がお金を巻き上げるために、甘言を施すのだ。だまされる人はお金を巻き上げられることになる。
儲けることがそれほどに大切なことか? 嘘をついてまで、儲けることの正当性があるのか?
殺人者には、正当性はない。どんな理由も、人殺しの正当な裏づけにはならない。
人が何を言おうが、言っていることを信じてよいかどうかは、疑わしい。多くの場合。言っていることではなく、その人が行っている行為とその結果から判断すべきである。言っていることと行っていることの乖離が激しいことがよくあるのだ。人はむしろ、実を取るのに、言葉を利用する。
なんと言おうと、実体がよくなっていないのなら、実態がよくなることを目指しているのではなく、別の目的で動いていると考えたほうが良い。
利益優先であったり、自己保身であったり、敵対関係であったり、世の中を良くするということ以上に人が優先させることには事欠かないのだ。
しかも、この世の中には、自分の周辺のそんな些細なことのほうを優先する人が多いのだ。
父、太郎は、実体と言葉に乖離あることには注意せよという。
父、太郎がいうことであるが、何も、これは経済のみならず、実質と資金の関係が乖離すると、よくならなくなるという。
たとえば、お役人が、国民、都道府県民、市町村民のためになることといいながら、その実、お役所のためになることを優先させているのである。だから、お役所はつぶれないが、民間の生活は苦しくなるのである。
とたえば、弁護士は、法治国家であることを強調する。裁判の有用性を説く。当事者同士で物事が解決したら、お金にならないからである。
たとえば、医者は、心配の目を全て払拭するという理由で、必要以上の医療行為をしたがる。でも、必要以上の医療行為をすれば、医者が儲かるというのが事実である。
たとえば、詐欺は、あなたのためといいながら、詐欺する人の自分がお金を巻き上げるために、甘言を施すのだ。だまされる人はお金を巻き上げられることになる。
儲けることがそれほどに大切なことか? 嘘をついてまで、儲けることの正当性があるのか?
殺人者には、正当性はない。どんな理由も、人殺しの正当な裏づけにはならない。
人が何を言おうが、言っていることを信じてよいかどうかは、疑わしい。多くの場合。言っていることではなく、その人が行っている行為とその結果から判断すべきである。言っていることと行っていることの乖離が激しいことがよくあるのだ。人はむしろ、実を取るのに、言葉を利用する。
なんと言おうと、実体がよくなっていないのなら、実態がよくなることを目指しているのではなく、別の目的で動いていると考えたほうが良い。
利益優先であったり、自己保身であったり、敵対関係であったり、世の中を良くするということ以上に人が優先させることには事欠かないのだ。
しかも、この世の中には、自分の周辺のそんな些細なことのほうを優先する人が多いのだ。
父、太郎は、実体と言葉に乖離あることには注意せよという。
2008年11月2日日曜日
疫病神と貧乏神と死神とT2と天使と悪魔と人
父、太郎は、メモ帳を持っている。
会社へ持ってゆく鞄の中、私用で出かけるときのバッグの中、寝室の脇の机の上、父用の書斎の四箇所には、メモ帳が有る。
先日、ちらっとみたメモ帳には、次のような書き込みがあった。
疫病神、貧乏神、死神、もっとも忙しい神は誰か?
T2 溶鉱炉に身を沈めたターミネーターの判断は正しかったのか?
天使と悪魔は、なぜ、人間を介して戦うのか?
人は、なぜ、定期的に眠らなければならないのか?
人は、どこに向かっているのだろうか?
父、太郎に聞いてみたら、大学で学生に質問する問題なのだという。
答えを教えてといったら、自分で考えてみたら、と教えてくれない。
どの問題も、難しそうである。ちょっと、じっくりと考えてみようか。いつか、この書き込みに答えを載せるときが来るかもしれない。
会社へ持ってゆく鞄の中、私用で出かけるときのバッグの中、寝室の脇の机の上、父用の書斎の四箇所には、メモ帳が有る。
先日、ちらっとみたメモ帳には、次のような書き込みがあった。
疫病神、貧乏神、死神、もっとも忙しい神は誰か?
T2 溶鉱炉に身を沈めたターミネーターの判断は正しかったのか?
天使と悪魔は、なぜ、人間を介して戦うのか?
人は、なぜ、定期的に眠らなければならないのか?
人は、どこに向かっているのだろうか?
父、太郎に聞いてみたら、大学で学生に質問する問題なのだという。
答えを教えてといったら、自分で考えてみたら、と教えてくれない。
どの問題も、難しそうである。ちょっと、じっくりと考えてみようか。いつか、この書き込みに答えを載せるときが来るかもしれない。
2008年11月1日土曜日
真夜中のブロガー
このところ、引き篭り傾向にある。
どうも、出かけなくなっていたら、外に出かけるのが億劫になってきた。
人ごみが苦手になってきた。
人と競争するのもいやだし、人とかかわるのもいやになってきた。
世の中は、複雑そうなので、苦手。
物騒なことも多い、ようだ。
うちでのんびりしているのがいいなあ。
ずっと、のんびり出来たらいいのだけど。
父、太郎は、「頭は使わないと退化する」なんていう。
まあ、頭も、のんびりさせているんだい。
どうも、出かけなくなっていたら、外に出かけるのが億劫になってきた。
人ごみが苦手になってきた。
人と競争するのもいやだし、人とかかわるのもいやになってきた。
世の中は、複雑そうなので、苦手。
物騒なことも多い、ようだ。
うちでのんびりしているのがいいなあ。
ずっと、のんびり出来たらいいのだけど。
父、太郎は、「頭は使わないと退化する」なんていう。
まあ、頭も、のんびりさせているんだい。
2008年10月26日日曜日
誘導する力と平衡の崩壊
世の中のバランスが崩れた。
金融と経済が崩れている。
父、太郎に言わせると、「歴史的な是正が進んでいると」という。
その昔、ナイル、チグリス-ユーフラテス、インダス、黄河という四大文明があった。ナイルは地中海文明からヨーロッパ・アメリカへ展開した、黄河文明は、中国が衰退したため日本という代理を立てた。
枠組みとしては、欧・米・日という三大文化圏にて形成しているが、四大文明の二つの後継者しか含まれていない。
いま、文明の後継は、日本から本来の中国に中心を戻しつつある。
チグリス-ユーフラテスは、オイルを武器にして、中規模ではあるが、中東文化圏を形成している。地勢的には、旧ソビエト連邦の南部の地域、中央アジアとともに、一つの文化圏を形成する可能性がある。その前に、インダス文明の後継であるインドが台頭してきている。
いまは、歴史的に見て、枠組みの変換点にきているというのが、父の意見だ。
すなわち、欧・米・日という三大拠点からの発信による世界支配の構造から、さらに、中東とインド、それに新たに南米地域やオーストラリアを含めた多数の広域拠点地域が緩やかに結びつく形態への変化の転換点にあるのだという。
欧州(スペインであったり、オランダであったり、イギリスであったりしたが)、米国、ロシアというきわめて少数の巨大国家の支配体制からの変換点であるという。
その第一章が、10年ほど前からの中東・東南アジアの台頭、BRISCの発展などに代表される地域拠点国家の台頭の時代であったという。この時代は、どんな手段を使っても、自分自身が勝ち、儲けることを求めた時代であった。
第二章が、これからの10年での、米・欧金型融経済システムの崩壊、いまは、(この段階であるという)。この段階では、勝つことは、儲けないことであるという。儲けるのではなく、儲けさせることを与えることで、その還元を受け、勝つ時代であるという。あくまでも、経済的に優位に立つかどうかが判断基準ではあるが、相互協力する関係の相手を儲けさせることで恩恵にあずかるということだそうだ。
父、太郎にいわせると、やがて、そのあとに、第三章が、くるという。その第三章とは、儲けるとかいう金銭基本の経済性からは切り離された基準、存在を受容できるか出来ないかという関係性で成り立つ社会になるという。儲かるかどうかではなく、お互いの関係を認め合うことが出来るもの同士が、お互いの為に関係性を保つという時代になるらしい。
金融と経済が崩れている。
父、太郎に言わせると、「歴史的な是正が進んでいると」という。
その昔、ナイル、チグリス-ユーフラテス、インダス、黄河という四大文明があった。ナイルは地中海文明からヨーロッパ・アメリカへ展開した、黄河文明は、中国が衰退したため日本という代理を立てた。
枠組みとしては、欧・米・日という三大文化圏にて形成しているが、四大文明の二つの後継者しか含まれていない。
いま、文明の後継は、日本から本来の中国に中心を戻しつつある。
チグリス-ユーフラテスは、オイルを武器にして、中規模ではあるが、中東文化圏を形成している。地勢的には、旧ソビエト連邦の南部の地域、中央アジアとともに、一つの文化圏を形成する可能性がある。その前に、インダス文明の後継であるインドが台頭してきている。
いまは、歴史的に見て、枠組みの変換点にきているというのが、父の意見だ。
すなわち、欧・米・日という三大拠点からの発信による世界支配の構造から、さらに、中東とインド、それに新たに南米地域やオーストラリアを含めた多数の広域拠点地域が緩やかに結びつく形態への変化の転換点にあるのだという。
欧州(スペインであったり、オランダであったり、イギリスであったりしたが)、米国、ロシアというきわめて少数の巨大国家の支配体制からの変換点であるという。
その第一章が、10年ほど前からの中東・東南アジアの台頭、BRISCの発展などに代表される地域拠点国家の台頭の時代であったという。この時代は、どんな手段を使っても、自分自身が勝ち、儲けることを求めた時代であった。
第二章が、これからの10年での、米・欧金型融経済システムの崩壊、いまは、(この段階であるという)。この段階では、勝つことは、儲けないことであるという。儲けるのではなく、儲けさせることを与えることで、その還元を受け、勝つ時代であるという。あくまでも、経済的に優位に立つかどうかが判断基準ではあるが、相互協力する関係の相手を儲けさせることで恩恵にあずかるということだそうだ。
父、太郎にいわせると、やがて、そのあとに、第三章が、くるという。その第三章とは、儲けるとかいう金銭基本の経済性からは切り離された基準、存在を受容できるか出来ないかという関係性で成り立つ社会になるという。儲かるかどうかではなく、お互いの関係を認め合うことが出来るもの同士が、お互いの為に関係性を保つという時代になるらしい。
2008年10月25日土曜日
3億円でも2億円でも
むかし、3億円という事件があったらしい。警官に変装した犯人が、銀行の現金輸送車を奪って、3億円を盗んだというものだ。もう、30年以上むかしに起こった事件だったと思う。
こないだは、宝くじに当たったおばあさんが、殺された。あたった金額は2億円だった。そのとたんに殺された。
3億円でも、2億円でも、人が地道に働いたら、一生で、ようやく、稼げる金額くらいだろうか。
ニュースで流れていたとき、父、太郎は、「一生分なら、一生かけて手に入れるのがよろしい。不相応なことは、結局のところ、もてあますだけである。それだけならよいが、不相応なことがきっかけで、破滅する事だってあるということだね」なんてことをいっていた。
こないだは、宝くじに当たったおばあさんが、殺された。あたった金額は2億円だった。そのとたんに殺された。
3億円でも、2億円でも、人が地道に働いたら、一生で、ようやく、稼げる金額くらいだろうか。
ニュースで流れていたとき、父、太郎は、「一生分なら、一生かけて手に入れるのがよろしい。不相応なことは、結局のところ、もてあますだけである。それだけならよいが、不相応なことがきっかけで、破滅する事だってあるということだね」なんてことをいっていた。
2008年10月19日日曜日
するべきことをしない罪
父、太郎曰く、この社会で生きているのならば、必ず、この社会を構成している人としての役割を負うという。役割を負うことで、この社会の中で生きる権利があるのだという。
昔は、この社会の規律に反逆する、抵抗する人が罪を犯している人と言う概念であった。いわゆる犯罪者である。
最近は、与えられた役割に対して、その役割を負わないこと自体が、悪いこと、あるいは犯罪であるという。
その典型的なことは、役人が、社会に対して貢献することの役割を負うべきなのに、自己の存在を構成する人の利益を求めることで、社会に対して、むしろ不利益をもたらしていることがあげられるという。それは不正流用などの犯罪のレベルではなく、問題がある、または問題が生じるとわかっていながら、無駄な仕事を生むことや、対策を講じないことも含まれる。
そして、もっとも問題なことは、その悪いことは、決定的に悪いにもかかわらず、その当事者が、裁かれず、また、結果に関しての反省もせず、むしろ、悪いのは社会の仕組みなどの不可抗力的な言い訳がまかり通り、結果的に、不利益を生じたことのみが残ってしまうという、そのことであるという。
父、太郎曰く、日本の社会がだめな体質は、このさらに、もっと、だめな体質を蔓延させるという。
その結果、正しいことが正しく行われない社会になる。このことがもっとも恐ろしいことである。
昔は、この社会の規律に反逆する、抵抗する人が罪を犯している人と言う概念であった。いわゆる犯罪者である。
最近は、与えられた役割に対して、その役割を負わないこと自体が、悪いこと、あるいは犯罪であるという。
その典型的なことは、役人が、社会に対して貢献することの役割を負うべきなのに、自己の存在を構成する人の利益を求めることで、社会に対して、むしろ不利益をもたらしていることがあげられるという。それは不正流用などの犯罪のレベルではなく、問題がある、または問題が生じるとわかっていながら、無駄な仕事を生むことや、対策を講じないことも含まれる。
そして、もっとも問題なことは、その悪いことは、決定的に悪いにもかかわらず、その当事者が、裁かれず、また、結果に関しての反省もせず、むしろ、悪いのは社会の仕組みなどの不可抗力的な言い訳がまかり通り、結果的に、不利益を生じたことのみが残ってしまうという、そのことであるという。
父、太郎曰く、日本の社会がだめな体質は、このさらに、もっと、だめな体質を蔓延させるという。
その結果、正しいことが正しく行われない社会になる。このことがもっとも恐ろしいことである。
2008年10月18日土曜日
兆候があらわれたら
父は、四季が岳太郎である。
父の話すことは、よくあたることがある。
不況になることは、昨年、予言していた。父に言わせると、すでに、いくつかの兆候は見えていたという。
米国の拝金主義に近い金融政策の資本主義経済が破綻するということは数年前に話していた。もっとも、当時は、米国の政治・金融の独裁的やり方は間違っているといっていた父が何を言いいたいのかわからなかったが。
出版業界の不況に関しても、ずいぶん前からいっていたが、これは予測と言うよりは、すでに、出版しても本が得れないという状況が現れていた後のことだったと思う。ただ、この流れは変わらずにすっと続くということについても話していた。太郎は、情報の電子化という流れの当然の方向性なのだという。
父に言わせると、世の中のことを興味深く見ていれば、必然的にわかることで、本質とその表現形態の相関関係をふまえて状況をみていて、兆候が現れたら、すばやく察知するだけのことであるという。
父の話すことは、よくあたることがある。
不況になることは、昨年、予言していた。父に言わせると、すでに、いくつかの兆候は見えていたという。
米国の拝金主義に近い金融政策の資本主義経済が破綻するということは数年前に話していた。もっとも、当時は、米国の政治・金融の独裁的やり方は間違っているといっていた父が何を言いいたいのかわからなかったが。
出版業界の不況に関しても、ずいぶん前からいっていたが、これは予測と言うよりは、すでに、出版しても本が得れないという状況が現れていた後のことだったと思う。ただ、この流れは変わらずにすっと続くということについても話していた。太郎は、情報の電子化という流れの当然の方向性なのだという。
父に言わせると、世の中のことを興味深く見ていれば、必然的にわかることで、本質とその表現形態の相関関係をふまえて状況をみていて、兆候が現れたら、すばやく察知するだけのことであるという。
2008年10月13日月曜日
人が多すぎる
100年位前は、地球の人口は数億人だった。それが、100年で10倍である。人の行為が、100年前と同じであったとしても、計算上、10倍の行為がなされることになる。人のエネルギー消費量が、100年前の10倍になっていたら、100倍のエネルギーが消費される計算になる。
見方を変えれば、100年前の100倍のスピードで、量的な消費がなされていることになる。
一方、質的に、100倍の進歩があるのだろうか。膨張する人の数に、社会の質が追いついているのだろうか。
逆に人一人が依存する地球環境はという観点からは、人が占める割合は、1/100になっているのだから、人の重要性も、1/100になっているという見方も出来る。
だから、数だけのことを考えれば、本当のことを言えば、人一人が死んでも、人類にとってはどうということはないのだ。ただ、他人との関係性があるから、もしくは、人類という集団の中で重要な機能を負わされている位置にいる、ということでもなければ、取るに足りない存在なのだ。
それは、人の心臓や脳にあたるのか、髪の毛や爪に該当するかで、役割が違うことと似てはいないだろうか。
見方を変えれば、100年前の100倍のスピードで、量的な消費がなされていることになる。
一方、質的に、100倍の進歩があるのだろうか。膨張する人の数に、社会の質が追いついているのだろうか。
逆に人一人が依存する地球環境はという観点からは、人が占める割合は、1/100になっているのだから、人の重要性も、1/100になっているという見方も出来る。
だから、数だけのことを考えれば、本当のことを言えば、人一人が死んでも、人類にとってはどうということはないのだ。ただ、他人との関係性があるから、もしくは、人類という集団の中で重要な機能を負わされている位置にいる、ということでもなければ、取るに足りない存在なのだ。
それは、人の心臓や脳にあたるのか、髪の毛や爪に該当するかで、役割が違うことと似てはいないだろうか。
2008年10月12日日曜日
ゆきあたりばったりで歪んだ世界
本当の本質が見えなくて、でも、状況的な対処のみすると、状況はかえって歪む。
でも、歪むことを承知で、歪むことをする人がいる。
世の中が歪むか歪まないかなど、どうでもいいと思っているのだ。
本質を見ることが出来なければ歪む。
自分だけが大切とか思えば歪む。
やがて、心の歪んだ人になる。
心の歪んだ人は、歪んだ行為をすることを平然とする。
そして、その人の周辺が歪む。
歪んだ人は歪んだ人達の中で生きてゆく。
そして、世の中を歪ませてゆく。
やがては、歪んだ人の世界は、歪みきった世界となる。
それは、たぶん、生きるに値しないところまで、歪む。
そんなこともわからず、歪んだ存在は、今日も徐々に歪んでゆく。
でも、歪むことを承知で、歪むことをする人がいる。
世の中が歪むか歪まないかなど、どうでもいいと思っているのだ。
本質を見ることが出来なければ歪む。
自分だけが大切とか思えば歪む。
やがて、心の歪んだ人になる。
心の歪んだ人は、歪んだ行為をすることを平然とする。
そして、その人の周辺が歪む。
歪んだ人は歪んだ人達の中で生きてゆく。
そして、世の中を歪ませてゆく。
やがては、歪んだ人の世界は、歪みきった世界となる。
それは、たぶん、生きるに値しないところまで、歪む。
そんなこともわからず、歪んだ存在は、今日も徐々に歪んでゆく。
2008年10月11日土曜日
ごたごたしている
協力関係が築けずに、不協和音が鳴り響く世界の軋み。
この世界には、物がある。厳然としてある。
一方、人々の気持ちがある。これも、もやっとしているが、確かに有る。
この二つをつなぐものは、お金ではない。お金でつなごうとしても、それはただ、変換するための道具に過ぎない。
何を手にいれ、何を手放すのか?
生活、生き方。
価値観こそが、変換基準である。
お金がなくとも、生活が成り立てば、それは存在し続ける。
お金があっても、生活が成り立たなければ、それは存在し続け得ない。
生活が、成り立つかどうかは、お金の量ではない。お金の流れである。生活は活動なのだから。少ないお金でも、流れ、循環が起こっていれば、そこに調和があり、生活が成り立つ。お金があっても、循環がなければ、それはただの紙くずだ。
循環すること、それは、自分ひとりではなく、ある規模での関係が成り立っているということを示す。
循環する関係性を成り立たせることが、重要なことだと思う。
この世界には、物がある。厳然としてある。
一方、人々の気持ちがある。これも、もやっとしているが、確かに有る。
この二つをつなぐものは、お金ではない。お金でつなごうとしても、それはただ、変換するための道具に過ぎない。
何を手にいれ、何を手放すのか?
生活、生き方。
価値観こそが、変換基準である。
お金がなくとも、生活が成り立てば、それは存在し続ける。
お金があっても、生活が成り立たなければ、それは存在し続け得ない。
生活が、成り立つかどうかは、お金の量ではない。お金の流れである。生活は活動なのだから。少ないお金でも、流れ、循環が起こっていれば、そこに調和があり、生活が成り立つ。お金があっても、循環がなければ、それはただの紙くずだ。
循環すること、それは、自分ひとりではなく、ある規模での関係が成り立っているということを示す。
循環する関係性を成り立たせることが、重要なことだと思う。
2008年10月5日日曜日
ガリレオΦ
うちの父、太郎は、化学者であるという現在形ではなく、あったと過去形にするほうがよさそうであるが、湯川先生は、天才物理学者である。うちの父とは、物理と化学の違いがあるが、天才か天才でないかの違いもあるのだろう。もっとも、本人は、物理と化学の違いのみの違いしかないと想っているのではないかと疑いたくなる節もある。
てなわけで、昨日、映画のガリレオに合わせてだろう、ガリレオΦがTVで放映された。大学生の時の事件が回想されつつ、助教授時代の事件が扱われている。
ちなみに、この回想の事件のほうでは、あの天才数学者となりうる石神も、後姿のみ、ちらっと登場したりする。
それにしても、湯川先生の犯罪の仮説の実証実験は、とおても、お金がかかるだろうし、どう考えても、そんな短期間で、必要な器具を用意できないだろうと思えるのが、あっというまに準備され、実験されてしまうのが、とても奇妙である。いったいどれほどの人間が協力したら、成立するか、誰か試算してもらいたいものである。
それなのに、そんなすごい実験を可能とするのだから、ひょうっとして、湯川先生は、大富豪の一族だったりするのだろうか。
てなわけで、昨日、映画のガリレオに合わせてだろう、ガリレオΦがTVで放映された。大学生の時の事件が回想されつつ、助教授時代の事件が扱われている。
ちなみに、この回想の事件のほうでは、あの天才数学者となりうる石神も、後姿のみ、ちらっと登場したりする。
それにしても、湯川先生の犯罪の仮説の実証実験は、とおても、お金がかかるだろうし、どう考えても、そんな短期間で、必要な器具を用意できないだろうと思えるのが、あっというまに準備され、実験されてしまうのが、とても奇妙である。いったいどれほどの人間が協力したら、成立するか、誰か試算してもらいたいものである。
それなのに、そんなすごい実験を可能とするのだから、ひょうっとして、湯川先生は、大富豪の一族だったりするのだろうか。
2008年10月4日土曜日
いらないものがおおすぎる
地球は、ごみごみしている。
日本もごみごみしている。
山麓もごみごみしている。
この山荘とて、ごみごみしている。
自分にとって、いらないもの、不要なものというのがある、というか、いらないものの方が多い。でも、それは、他の人にとって、必要なものあるのかもしれない。
けれども、誰にとっても必要のないもの、不要なものというものもあるんじゃないだろうか。
父、太郎に言わせると、この世の中の物質に不要なものはない。不要だとすれば、それは、人間が不要な形態に、形を変えてしまったものだからだろう、という。
たしかに、ごみと呼ばれるものは、本来、人間が何かを作ることで生じた不要物であったり、作ったものの使えなくなったものだったり、もっと良いものが生まれてきたために放置されてしまったりしたものなのだ。
ならば、人間が、活動し、物を作り出すことは、必然的にごみを有むということになる。ならば、いらないものもおおくなるというものだ。
日本もごみごみしている。
山麓もごみごみしている。
この山荘とて、ごみごみしている。
自分にとって、いらないもの、不要なものというのがある、というか、いらないものの方が多い。でも、それは、他の人にとって、必要なものあるのかもしれない。
けれども、誰にとっても必要のないもの、不要なものというものもあるんじゃないだろうか。
父、太郎に言わせると、この世の中の物質に不要なものはない。不要だとすれば、それは、人間が不要な形態に、形を変えてしまったものだからだろう、という。
たしかに、ごみと呼ばれるものは、本来、人間が何かを作ることで生じた不要物であったり、作ったものの使えなくなったものだったり、もっと良いものが生まれてきたために放置されてしまったりしたものなのだ。
ならば、人間が、活動し、物を作り出すことは、必然的にごみを有むということになる。ならば、いらないものもおおくなるというものだ。
2008年9月28日日曜日
最近読んだ本
最近読んだ本のベスト3を書こうかな。
一つ目は、『のぼうの城』、和田竜さんとうい人のもの。丹波も和泉も靭負もいいけど、甲斐姫がかっこいいね。それにひきかえ、「のぼうよ、しっかりせい」と、どつきたくなるぞ。
二つ目は、『レインツリーの国』、有川浩さんのものですが、この本では自衛隊は登場しません。伸は、ちょっと理屈っぽいけれど、誠実だなと思います。それに引き換え、ひとみさんは頑固だなと思います。
三つ目は、『容疑者Xの献身』、東野圭吾さんのガリレオものです。TVシリーズでは、変人ガリレオを福山雅治さんが演じていましたけど、こんど、この本が、映画になるようですから、見に行きたいと思っています。本では、女刑事は登場しないんですね。
なんだか、全然統一感のない3本になってしまいましたけど、おもしろかったんだからしかたないか。
一つ目は、『のぼうの城』、和田竜さんとうい人のもの。丹波も和泉も靭負もいいけど、甲斐姫がかっこいいね。それにひきかえ、「のぼうよ、しっかりせい」と、どつきたくなるぞ。
二つ目は、『レインツリーの国』、有川浩さんのものですが、この本では自衛隊は登場しません。伸は、ちょっと理屈っぽいけれど、誠実だなと思います。それに引き換え、ひとみさんは頑固だなと思います。
三つ目は、『容疑者Xの献身』、東野圭吾さんのガリレオものです。TVシリーズでは、変人ガリレオを福山雅治さんが演じていましたけど、こんど、この本が、映画になるようですから、見に行きたいと思っています。本では、女刑事は登場しないんですね。
なんだか、全然統一感のない3本になってしまいましたけど、おもしろかったんだからしかたないか。
2008年9月27日土曜日
知っていることと、知っていると同じこと
このところ、父、四季が岳太郎の帰りが遅い。休祝日も、部屋にこもって、なにやら、机に向かっている。今度の大学で使用する講義の資料を作成しているようだ。
本業の仕事のほうも、なんだか、立場が上がったようで、このところ忙しそうである。
父、太郎の仕事は、難しい。
「分析」の相談にのる営業をしているのだそうな。それで、分析のことを全てわかっているのかと聞くと、全てのことがわかるわかっているわけではないという。でも、提供できる分析は、所属している分析の会社の出来ることを提供するだけだから、自分が知らないことなら、誰ができるのかということを知っていて、その人に聞けば良いのだという。そして、聞くために、どのような情報を知り、教えれば答えが得られるかを知っていれば良いのだという。
世の中の多くのことも、全てを知ることなんて出来ないけれど、必要なことがわかる手立てを持っていることについては、知っていることとどう意義の意味を持つのだという。
本業の仕事のほうも、なんだか、立場が上がったようで、このところ忙しそうである。
父、太郎の仕事は、難しい。
「分析」の相談にのる営業をしているのだそうな。それで、分析のことを全てわかっているのかと聞くと、全てのことがわかるわかっているわけではないという。でも、提供できる分析は、所属している分析の会社の出来ることを提供するだけだから、自分が知らないことなら、誰ができるのかということを知っていて、その人に聞けば良いのだという。そして、聞くために、どのような情報を知り、教えれば答えが得られるかを知っていれば良いのだという。
世の中の多くのことも、全てを知ることなんて出来ないけれど、必要なことがわかる手立てを持っていることについては、知っていることとどう意義の意味を持つのだという。
2008年9月23日火曜日
33分探偵の名言
土曜日の深夜には、33分探偵がいる。この男、鞍馬六郎は、すでに、始まりから5分くらいで犯人が自首するような単純な事件を33分、推理するのだ。
痩せたまぐろなら刺さるよねえ!
この言葉が一番印象的である。とにかく、根拠のない推理を構築するのである。もっとも、父、四季が岳太郎、曰く、わかりきったことから、妥当性ある推理を展開することは、誰にでも出来ることであるという。少しの手がかりから、自由な発想で、いろんなことを考えることは、とても重要である。鞍馬六郎の推理は、現実的可能性がほとんどないような推理を組み立てるが、「痩せたマグロなら凶器になる」という発想、その自由な感覚が、現代人に足りないところなのだろう。
それにしても、本当に、「痩せたまぐろなら刺さるのだろうか?」
もちろん、人の体にである。
痩せたまぐろなら刺さるよねえ!
この言葉が一番印象的である。とにかく、根拠のない推理を構築するのである。もっとも、父、四季が岳太郎、曰く、わかりきったことから、妥当性ある推理を展開することは、誰にでも出来ることであるという。少しの手がかりから、自由な発想で、いろんなことを考えることは、とても重要である。鞍馬六郎の推理は、現実的可能性がほとんどないような推理を組み立てるが、「痩せたマグロなら凶器になる」という発想、その自由な感覚が、現代人に足りないところなのだろう。
それにしても、本当に、「痩せたまぐろなら刺さるのだろうか?」
もちろん、人の体にである。
2008年9月21日日曜日
ポリビニールとこちょこちょ
平日の朝、父、太郎は、5時半ごろに朝食を食べるのだ。すると、もももおきて来て、一緒に食事する。
食事のあとは、新聞紙を入れるためにおいてあるビニール袋の近くで、行儀良く座っている。
父、太郎は、簡単な食事を済ませると、もものところにゆく、体をなでてあげる。するとももは、ビニール袋に頭をこすりつけながら、うれしそうに、ごろごろする。
首とか頭とか、とにかく体中をなでられるのだが、好きなようだ。
平日は、毎日のように、父の食事にあわせて、この習慣が続いているのだ。もっとも、出かける都合で、1,2分のことも、5,6分のこともある。
とにっかく、ももにとっては、気持ちよい時間のようである。
でも、休日には、父は、昼ごろまで寝ているから、ももも、それを知ってか、所持だけさっさと済ませて、寝ている。
食事のあとは、新聞紙を入れるためにおいてあるビニール袋の近くで、行儀良く座っている。
父、太郎は、簡単な食事を済ませると、もものところにゆく、体をなでてあげる。するとももは、ビニール袋に頭をこすりつけながら、うれしそうに、ごろごろする。
首とか頭とか、とにかく体中をなでられるのだが、好きなようだ。
平日は、毎日のように、父の食事にあわせて、この習慣が続いているのだ。もっとも、出かける都合で、1,2分のことも、5,6分のこともある。
とにっかく、ももにとっては、気持ちよい時間のようである。
でも、休日には、父は、昼ごろまで寝ているから、ももも、それを知ってか、所持だけさっさと済ませて、寝ている。
2008年9月20日土曜日
悪い部分は隠されている
父、太郎は、歳を取ることは、この世の中のことを知ることであるという。
学校で覚えることは基本的なこと概念的なことが多い。人間関係にしても、数十人規模であり、地域的類似性、学力的類似性という似通った要素を持つ人の人間関係に基づく。
けれども、社会は、複雑系の応用問題であるという。
基本的な考え方が、社会のあちこちで使われているし、人間関係の形成も構成要員が多く、その関係性も複雑である。
そして、社会が、学校と異なるのは、決して理想的なものを目指しているというわけではないということであるという。場合によっては、間違ったことがまかり通っていることがあるという。
それは、構成要員である人が、間違った考えを持っている人で構成されれば、その社会的部分が間違ったことがまかり通る仕組みを形成することがあるという。
だから、社会で生きてゆくうえでは、絶えず、その仕組み、その人をみて、その状況と考え方の基本を理解し、その人や社会が良いか悪いかを見極めてゆかなければならないという。
頭の良い人でさえ、だまされることは、この社会では、いくらでもでもあるという。それほど、巧妙に悪い部分は隠されていることがあるという。だれでも、悪いという部分は隠したがるものだし、隠されてしまうのが社会なのだという。
学校で覚えることは基本的なこと概念的なことが多い。人間関係にしても、数十人規模であり、地域的類似性、学力的類似性という似通った要素を持つ人の人間関係に基づく。
けれども、社会は、複雑系の応用問題であるという。
基本的な考え方が、社会のあちこちで使われているし、人間関係の形成も構成要員が多く、その関係性も複雑である。
そして、社会が、学校と異なるのは、決して理想的なものを目指しているというわけではないということであるという。場合によっては、間違ったことがまかり通っていることがあるという。
それは、構成要員である人が、間違った考えを持っている人で構成されれば、その社会的部分が間違ったことがまかり通る仕組みを形成することがあるという。
だから、社会で生きてゆくうえでは、絶えず、その仕組み、その人をみて、その状況と考え方の基本を理解し、その人や社会が良いか悪いかを見極めてゆかなければならないという。
頭の良い人でさえ、だまされることは、この社会では、いくらでもでもあるという。それほど、巧妙に悪い部分は隠されていることがあるという。だれでも、悪いという部分は隠したがるものだし、隠されてしまうのが社会なのだという。
2008年9月15日月曜日
四季が岳美樹の冒険2
四季が岳太郎の最新作、『四季が岳美樹の冒険』はフィクションである。
あそこに書かれていることは事実ではない。
しかも、美樹は、あんなに頭も良くない。でも、よく、あれだけの作り話を考えるものである。これだから、大人は油断ならない。
美樹は、幾つ物事件を解決したことになっているが、もちろん、現実にそんなことはありえない。ましてや、殺人事件の結末など、小学生が考え付くようなことではないだろう。
でも、かといって、四季が岳太郎が実際に解決したもの物でもない。
ただ、父、太郎は、美樹が小学生の頃、美樹を主人公にした探偵物語を、子守唄代わりと言うわけでもないが、話してくれて、だけど、その物語は、いつも、結末を聞かずに終わったという記憶がある。
あの頃に、聞いた話は、ここに紹介されているお話だったようにも思うし、少し違っていたようにも思う。でも、ここに紹介されているお話だったのだろう。父、太郎が、思い出を語っているのだというのだから。
あそこに書かれていることは事実ではない。
しかも、美樹は、あんなに頭も良くない。でも、よく、あれだけの作り話を考えるものである。これだから、大人は油断ならない。
美樹は、幾つ物事件を解決したことになっているが、もちろん、現実にそんなことはありえない。ましてや、殺人事件の結末など、小学生が考え付くようなことではないだろう。
でも、かといって、四季が岳太郎が実際に解決したもの物でもない。
ただ、父、太郎は、美樹が小学生の頃、美樹を主人公にした探偵物語を、子守唄代わりと言うわけでもないが、話してくれて、だけど、その物語は、いつも、結末を聞かずに終わったという記憶がある。
あの頃に、聞いた話は、ここに紹介されているお話だったようにも思うし、少し違っていたようにも思う。でも、ここに紹介されているお話だったのだろう。父、太郎が、思い出を語っているのだというのだから。
2008年9月14日日曜日
四季が岳美樹の冒険
父、四季が岳太郎は、ミステリー好きである。テレビで、一緒にミステリー物をみたりすると、犯人を当てることが良くある。
ホームズ君やコロンボ君や古畑君などの映画をよく見ている。
本は、最近でこそ、あまり読んでいないようだが、昔はよく読んでいた。
「四季が岳美樹の冒険」は、10年ほどまえに原型が作られていた。
父、四季が岳太郎は、科学、それも分析化学が専門ではあるが、趣味として、ミステリーから、歴史や古典、文学、現代社会などのことに興味が移り、著作も、現代社会のこと以外のことを発表してきたいる。ミステリーから遠ざかっていたのだ。
でも、太郎の作品は、殺人事件ではないにしても、歴史や文学について考察するのにおいて、推理することが満ち溢れている。
手法という点からすれば、推理である。
父、太郎曰く、思いつくことが一番大切なことで、その思い付きを実証することというのは、方法さえ知っていれば、自然と生まれてくることなのだという。
思いつくことは、方法を知ってさえいれば、ある分野のことを長く深く考えれば、そのことも、自然と生まれてくるという。
要は、考えるということが好きなのである。
ホームズ君やコロンボ君や古畑君などの映画をよく見ている。
本は、最近でこそ、あまり読んでいないようだが、昔はよく読んでいた。
「四季が岳美樹の冒険」は、10年ほどまえに原型が作られていた。
父、四季が岳太郎は、科学、それも分析化学が専門ではあるが、趣味として、ミステリーから、歴史や古典、文学、現代社会などのことに興味が移り、著作も、現代社会のこと以外のことを発表してきたいる。ミステリーから遠ざかっていたのだ。
でも、太郎の作品は、殺人事件ではないにしても、歴史や文学について考察するのにおいて、推理することが満ち溢れている。
手法という点からすれば、推理である。
父、太郎曰く、思いつくことが一番大切なことで、その思い付きを実証することというのは、方法さえ知っていれば、自然と生まれてくることなのだという。
思いつくことは、方法を知ってさえいれば、ある分野のことを長く深く考えれば、そのことも、自然と生まれてくるという。
要は、考えるということが好きなのである。
2008年9月13日土曜日
老人との境目
先日、父、四季が岳太郎は、電車に乗り込んだら、サラリーマン風の人から席をゆづられる申し出を受けたのだそうな。
それはつまり、少なくとも、60歳くらいだろうか、老人に見られたということである。
(父はまだ、実際のところ、まだ、40歳台である)
父は、申し出に対しては断ったのだそうな。
素直に席をゆづられておけばよかったのではないだろうか。
ここで、断言しておくが、見た目、確かに、若くなんてない。髪も真っ白で、顔は、老けていて、行動は、生気がなかったに違いない。
いつかは、世間からいたわりを受けるほどの年齢になるのだし、見た目には、お年寄りに燃えるのだし、世間からいたわりを受けても、よいのじゃないか。
まあ、いたわりうけて、長生きしなさい。
それはつまり、少なくとも、60歳くらいだろうか、老人に見られたということである。
(父はまだ、実際のところ、まだ、40歳台である)
父は、申し出に対しては断ったのだそうな。
素直に席をゆづられておけばよかったのではないだろうか。
ここで、断言しておくが、見た目、確かに、若くなんてない。髪も真っ白で、顔は、老けていて、行動は、生気がなかったに違いない。
いつかは、世間からいたわりを受けるほどの年齢になるのだし、見た目には、お年寄りに燃えるのだし、世間からいたわりを受けても、よいのじゃないか。
まあ、いたわりうけて、長生きしなさい。
2008年9月7日日曜日
首相が辞めた
自分の力では出来ないことがある。どのようにしたら良いか具体的に考えられなくなるときがある。自分自身に限界を感じることがある。自分自身がそのことをすることが嫌になる。自分自身がそのことに携わりたくない。自分よりも適任者がいると思うことがある。適任者のほうがうまくやるだろうと思い込む。自分自身がもう嫌になる。認めたところですでに、他の人に代わるべきなのは間違いない。
たぶん、出発点が間違っていたのだ。出来ると見込んでいたが、自分の能力が、立場に要求される能力を満たしていないという事実認識ができていなかったのだ。見込みで動かざるを得ないことがある。物事は、確実に出来ることばかりを推定していても始まらない。だから、わからないことに挑戦することにもなる。人は、自分自身を新たな環境におくことによって、能力開発してゆく。
おそらく、しておくべきことは、自分の代わりになるべき人を育てておくことだ。挑戦に失敗しても、失敗が失敗で終わらずに、次に、成功に導けるように、次を用意しておくことだ。人間社会は、集団で動いているのであり、人はいつか死ぬ。だから、誰かの代わりを誰かが行わざるを得ない。社会では、連続性を保持するという行為をしておくべきだ。人が変われば、人が変わった分、確実に変わる。変化に準備しておくことは、大切なことである。先を読むということは、準備しておくということである。
昨年の首相の自主辞任につづいて、また、首相の自主辞任を見ていた父、四季が岳太郎がつぶやいていた。
先が読めれば一人前だよ、美樹。
たぶん、出発点が間違っていたのだ。出来ると見込んでいたが、自分の能力が、立場に要求される能力を満たしていないという事実認識ができていなかったのだ。見込みで動かざるを得ないことがある。物事は、確実に出来ることばかりを推定していても始まらない。だから、わからないことに挑戦することにもなる。人は、自分自身を新たな環境におくことによって、能力開発してゆく。
おそらく、しておくべきことは、自分の代わりになるべき人を育てておくことだ。挑戦に失敗しても、失敗が失敗で終わらずに、次に、成功に導けるように、次を用意しておくことだ。人間社会は、集団で動いているのであり、人はいつか死ぬ。だから、誰かの代わりを誰かが行わざるを得ない。社会では、連続性を保持するという行為をしておくべきだ。人が変われば、人が変わった分、確実に変わる。変化に準備しておくことは、大切なことである。先を読むということは、準備しておくということである。
昨年の首相の自主辞任につづいて、また、首相の自主辞任を見ていた父、四季が岳太郎がつぶやいていた。
先が読めれば一人前だよ、美樹。
2008年9月6日土曜日
少しずつ変わってゆくとわからないことがある
卒業写真を眺めるとその当時の自分がいるし友だちがいる。
毎日のように会っている友だちは、いつもと変わらない友だちだと思っている。実際、変わっているように見えるときは、髪形を変えたとか服装を変えたとか、そんなことばかりで、逆に言えば、他は変わっていないと思っている。
でも、卒業写真を見ると良く分かる。
人は変わっているのだ。
ただ、ほんの少しずつ変わっているのだと、気付かないのだ。
世界一受けたい授業の茂木健一郎さんの「アハ体験」の写真も、少しずつ変わってゆく写真画像をみているのだけれども、少しずつ変わるのだからわからない。
でも、最後に、変わった前後で写真を比較させられ、こんなに変わったのかと言うことを突きつけられる。
日本の社会も少しずつ変わっているだろう。でも、変わっていることがわからない。そして、ある日、気付かされるのだ。こんなにも変わってしまったら、どうしようもないのではないかと言うことを。
毎日のように会っている友だちは、いつもと変わらない友だちだと思っている。実際、変わっているように見えるときは、髪形を変えたとか服装を変えたとか、そんなことばかりで、逆に言えば、他は変わっていないと思っている。
でも、卒業写真を見ると良く分かる。
人は変わっているのだ。
ただ、ほんの少しずつ変わっているのだと、気付かないのだ。
世界一受けたい授業の茂木健一郎さんの「アハ体験」の写真も、少しずつ変わってゆく写真画像をみているのだけれども、少しずつ変わるのだからわからない。
でも、最後に、変わった前後で写真を比較させられ、こんなに変わったのかと言うことを突きつけられる。
日本の社会も少しずつ変わっているだろう。でも、変わっていることがわからない。そして、ある日、気付かされるのだ。こんなにも変わってしまったら、どうしようもないのではないかと言うことを。
2008年8月31日日曜日
嵐のあとと祭りのあと
日本の夏は蒸し暑い。
一昨年あたりは、9月になっても、台風の被害が続いていたように思う。
昨年は、とにかく暑いという印象が強かった。
今年は、とにかくスコール、局地的な大雨が強烈だ。
来年は、どんなことになるのだろう?
夏の甲子園も終わり、オリンピックも終わり、明日から9月。
また、日本全体が、普通の生活に戻ってゆく。
でも、ニュースでは、日本は、物価高、景気の減速やらで、雲行きが怪しいようだ。
オリンピックは民族の祭典なんていyことがあるらしいが、そのオリンピックの開かれた中国で、中国とチベットの問題、グルジアとロシアの民族問題、タイの政権、新たな冷戦構造が生まれるのではないかなどなど、世界に火種は尽きない。
なんだか、誰もが、思うように行かずに、いらだって、怒っているように思える。
一昨年あたりは、9月になっても、台風の被害が続いていたように思う。
昨年は、とにかく暑いという印象が強かった。
今年は、とにかくスコール、局地的な大雨が強烈だ。
来年は、どんなことになるのだろう?
夏の甲子園も終わり、オリンピックも終わり、明日から9月。
また、日本全体が、普通の生活に戻ってゆく。
でも、ニュースでは、日本は、物価高、景気の減速やらで、雲行きが怪しいようだ。
オリンピックは民族の祭典なんていyことがあるらしいが、そのオリンピックの開かれた中国で、中国とチベットの問題、グルジアとロシアの民族問題、タイの政権、新たな冷戦構造が生まれるのではないかなどなど、世界に火種は尽きない。
なんだか、誰もが、思うように行かずに、いらだって、怒っているように思える。
2008年8月30日土曜日
雷鳴とどろく豪雨
いやあ、昨晩は、神様が怒ったような土砂降り、雷鳴となりました。
絶えることなく、雷が鳴り続け、とても怖かった。
そんな大雨の中、11時過ぎに、父、太郎は、ずぶ濡れになり、帰ってきた。
髪も、服も、靴も、ずぶ濡れで、水の中を泳いできたのかと思うほどだ。
それにしても、人間など、自然の脅威には、なすすべがない。
土砂崩れ、停電、浸水、洪水・・・・・
人間活動は麻痺する。
そいでも、今日は、晴れ間が見える。
庭の緑は、昨日のまま。
自然の脅威、は自、然の対応力が一番強い。
そして、地球は、今日も廻っていく。
絶えることなく、雷が鳴り続け、とても怖かった。
そんな大雨の中、11時過ぎに、父、太郎は、ずぶ濡れになり、帰ってきた。
髪も、服も、靴も、ずぶ濡れで、水の中を泳いできたのかと思うほどだ。
それにしても、人間など、自然の脅威には、なすすべがない。
土砂崩れ、停電、浸水、洪水・・・・・
人間活動は麻痺する。
そいでも、今日は、晴れ間が見える。
庭の緑は、昨日のまま。
自然の脅威、は自、然の対応力が一番強い。
そして、地球は、今日も廻っていく。
2008年8月24日日曜日
容疑者Xの献身
探偵ガリレオの最新作が文庫本になったので読みました。
湯川先生は、相変わらず、理系の先生なのだなあと思いましたが、これまでの短編集とはちょっと、違った感じがします。
湯川先生よりも印象に残るのは、石神先生です。たぶん、美里さんは、石神先生のことが好きなんだなと思います。石神先生は、どうも、見てくれは、かっこよくなさそうだけれど、良い先生のように思います。それは、授業風景にちょっと、感じられます。
でも、とても、孤独な先生で、友達が一人もいないようです。石上先生の実力を理解しているのは、湯川先生のみのようですし、その湯川先生にしても、この事件があったから、石上先生のもとを訪れたものの、友達と言うべき存在ではありません。
そういえば、湯川先生も、草薙刑事とも、友達と言うような感じでもないし、天才というものは、一人も友達がいないというものなのかしら。
そういえば、父、四季が岳太郎も、友達がいないという点に関してのみは、湯川先生や石神先生と同じではあるのだが・・・・・
湯川先生は、相変わらず、理系の先生なのだなあと思いましたが、これまでの短編集とはちょっと、違った感じがします。
湯川先生よりも印象に残るのは、石神先生です。たぶん、美里さんは、石神先生のことが好きなんだなと思います。石神先生は、どうも、見てくれは、かっこよくなさそうだけれど、良い先生のように思います。それは、授業風景にちょっと、感じられます。
でも、とても、孤独な先生で、友達が一人もいないようです。石上先生の実力を理解しているのは、湯川先生のみのようですし、その湯川先生にしても、この事件があったから、石上先生のもとを訪れたものの、友達と言うべき存在ではありません。
そういえば、湯川先生も、草薙刑事とも、友達と言うような感じでもないし、天才というものは、一人も友達がいないというものなのかしら。
そういえば、父、四季が岳太郎も、友達がいないという点に関してのみは、湯川先生や石神先生と同じではあるのだが・・・・・
2008年8月23日土曜日
複雑系
父、四季が岳太郎、曰く、世の中は、複雑系であるという。
いろんなことが相互に関係しあって、成り立っているということを意味しているという。
原因と結果の関連は、個別の存在の間に関係性が生じることでおきている。その関係性が成り立つ前の状態から、関係性が成り立った後の状態に変化するとき、変化を引き起こした主たる要因を原因といい、変化した状態を結果と呼ぶが、一部分だけを切り出して考えると、確かに、原因と結果と言うように見えるかもしれないが、それは、一部分の事柄の変化に着目したときに、原因と結果があるように思えるが、状態変化ということでは、ある一つのことで変化しているのではなくい。多くの相互作用があり、その相互作用に強さ、弱さの強弱がある。その強さと弱さで、影響の度合いがことなり、影響が強い要因を原因と考える。問題は、人間が認識した強い作用と思うことが本当に強い作用を及ぼしているという現実を正しく理解できているかどうかで、この点に関しての人間の認識力に関しては、はなはだ、心もとない認識しか出来ない人がとても多いといわざるを得ない状況であろう。
いろんなことが相互に関係しあって、成り立っているということを意味しているという。
原因と結果の関連は、個別の存在の間に関係性が生じることでおきている。その関係性が成り立つ前の状態から、関係性が成り立った後の状態に変化するとき、変化を引き起こした主たる要因を原因といい、変化した状態を結果と呼ぶが、一部分だけを切り出して考えると、確かに、原因と結果と言うように見えるかもしれないが、それは、一部分の事柄の変化に着目したときに、原因と結果があるように思えるが、状態変化ということでは、ある一つのことで変化しているのではなくい。多くの相互作用があり、その相互作用に強さ、弱さの強弱がある。その強さと弱さで、影響の度合いがことなり、影響が強い要因を原因と考える。問題は、人間が認識した強い作用と思うことが本当に強い作用を及ぼしているという現実を正しく理解できているかどうかで、この点に関しての人間の認識力に関しては、はなはだ、心もとない認識しか出来ない人がとても多いといわざるを得ない状況であろう。
2008年8月17日日曜日
真と偽
父、四季が岳太郎曰く、真と偽は、あいまいであるという。
人間が、状況を認識するが、状況の中で生きている人間は、その状況を感覚を通じて情報を得て、脳内の処理を行い、記憶する。
その処理を行うことで、すでに、真実は歪められる。
だから、人の数だけの状況認識があるが、その状況認識には、それぞれの状況認識する主体の偏りが生じるという。
だから、真実が微妙にずれ、時には、大幅にずれ、そのずれた認識で生きている人間は、時には、真実を見間違いながら生きているという。
でも、どの人間も、状況認識し生きているのだが、自分の認識を基本にいきているという根本が変わらないので、自分の認識が正しいという前提で生きている。
真実は、状況の中にあり、その中に、普遍的な真実はある。
ところが、人間が状況認識することで、状況はゆがみ、ゆがんだ状況認識が人の中に生まれる。それでも、状況認識のゆがみが小さなものは本質的なものは、たぶん真実を認識していると表現して問題ないような偏りもにも無視できる小さな偏りを受けただけと考えてよい。
でも、それが、単に状況認識のみであるばあい、その状況認識を正しく認識しているか、それとも、自分にとって有利な状況認識に歪めているかは、たぶんに、自分にとって有利な状況認識をしているケースがあるという。
自分にとって有利に考える傾向は、生物が本来、自分をより強い生存体に仕上げてゆく傾向があるから、致し方ないのだという。
けれども、時として、自分が中心に世の中が動いているという幻想を持つ人がいて、その幻想を持つ人が、ある程度、状況を支配的に動かす力も持っている場合、その周辺状況は、とても危険な状況になることがあるという。
端的な例は、『ヒトラー』であるという。
人間が、状況を認識するが、状況の中で生きている人間は、その状況を感覚を通じて情報を得て、脳内の処理を行い、記憶する。
その処理を行うことで、すでに、真実は歪められる。
だから、人の数だけの状況認識があるが、その状況認識には、それぞれの状況認識する主体の偏りが生じるという。
だから、真実が微妙にずれ、時には、大幅にずれ、そのずれた認識で生きている人間は、時には、真実を見間違いながら生きているという。
でも、どの人間も、状況認識し生きているのだが、自分の認識を基本にいきているという根本が変わらないので、自分の認識が正しいという前提で生きている。
真実は、状況の中にあり、その中に、普遍的な真実はある。
ところが、人間が状況認識することで、状況はゆがみ、ゆがんだ状況認識が人の中に生まれる。それでも、状況認識のゆがみが小さなものは本質的なものは、たぶん真実を認識していると表現して問題ないような偏りもにも無視できる小さな偏りを受けただけと考えてよい。
でも、それが、単に状況認識のみであるばあい、その状況認識を正しく認識しているか、それとも、自分にとって有利な状況認識に歪めているかは、たぶんに、自分にとって有利な状況認識をしているケースがあるという。
自分にとって有利に考える傾向は、生物が本来、自分をより強い生存体に仕上げてゆく傾向があるから、致し方ないのだという。
けれども、時として、自分が中心に世の中が動いているという幻想を持つ人がいて、その幻想を持つ人が、ある程度、状況を支配的に動かす力も持っている場合、その周辺状況は、とても危険な状況になることがあるという。
端的な例は、『ヒトラー』であるという。
2008年8月16日土曜日
妖精遊戯から雨木の国
有川浩さんのレインツリーの国を読んだ。
図書館戦争にも名前だけだけど登場する本だ。
伸は、理屈っぽいけど、好感の持てる男の子である。とにかく、人生に前向きである。
ひとみは、それに比べると、あたまはよいのだけれど、世の中に対して臆病というか、消極的な人生を、歩んでいる。
SPで、主人公が、男の後を、三歩下がってついてくるような女がいないかなあと自分の理想をのべ、笹本に、そんなおんないねえよ!と一言の元に否定されたことがあったが、物語のななかであれば、近い存在の女の子がいたりする。
なんか、まどろっこしく感じるところがあるけれど、それはそれで、二人のそれぞれの時間の流れがあって、その流れ方が、微妙にずれているのだけれども、二人とも、どちらかというと、時間の流れ方がゆっくりとした流れ方のように思う。
ゆっくりと流れる時間もいいもんだなあ。
図書館戦争にも名前だけだけど登場する本だ。
伸は、理屈っぽいけど、好感の持てる男の子である。とにかく、人生に前向きである。
ひとみは、それに比べると、あたまはよいのだけれど、世の中に対して臆病というか、消極的な人生を、歩んでいる。
SPで、主人公が、男の後を、三歩下がってついてくるような女がいないかなあと自分の理想をのべ、笹本に、そんなおんないねえよ!と一言の元に否定されたことがあったが、物語のななかであれば、近い存在の女の子がいたりする。
なんか、まどろっこしく感じるところがあるけれど、それはそれで、二人のそれぞれの時間の流れがあって、その流れ方が、微妙にずれているのだけれども、二人とも、どちらかというと、時間の流れ方がゆっくりとした流れ方のように思う。
ゆっくりと流れる時間もいいもんだなあ。
2008年8月10日日曜日
生きるために必要なもの
父、四季が岳太郎に言わせると、生きるために必要なものは、生きる意志であるという。
生きる意志は、生きたいと思う心であるという。
生きたいと思う心は、娘であるという。
この世の中は、人間中心に作り変えられつつあり、人間は、世の中を理解することで、この世の中を変えようとしている。
ただ、その作り変えの速度は遅く、太郎自身が、この世の中に生きているうちには完成しないだろうという。つまり、太郎の時代の活動はあくまでも、途中、次の世代への橋渡しの存在であるという、もっとも、ずっと、長い間、次の世代への橋渡しの時代が、まだまだ、長く続くだろうと考えているという。
本当に、理想的な世の中になるには、まだまだ、長い年月がかかるだろうという。
ただ、今よりも良い世の中になる可能性はある。それが、未来にあるとしたら、現在、出来るところを、現在で、もっとも良いと思われることをしておくだけであるという。
もっとも良いと思われることをしておくこと。それが生きる指針であるという。
それは、未来に繋がる存在があるということ。だから、生きるのであるという。
生きる意志は、生きたいと思う心であるという。
生きたいと思う心は、娘であるという。
この世の中は、人間中心に作り変えられつつあり、人間は、世の中を理解することで、この世の中を変えようとしている。
ただ、その作り変えの速度は遅く、太郎自身が、この世の中に生きているうちには完成しないだろうという。つまり、太郎の時代の活動はあくまでも、途中、次の世代への橋渡しの存在であるという、もっとも、ずっと、長い間、次の世代への橋渡しの時代が、まだまだ、長く続くだろうと考えているという。
本当に、理想的な世の中になるには、まだまだ、長い年月がかかるだろうという。
ただ、今よりも良い世の中になる可能性はある。それが、未来にあるとしたら、現在、出来るところを、現在で、もっとも良いと思われることをしておくだけであるという。
もっとも良いと思われることをしておくこと。それが生きる指針であるという。
それは、未来に繋がる存在があるということ。だから、生きるのであるという。
2008年8月9日土曜日
珈琲はどこへ行った?
昨日のことである。
帰ってきた父は、夕食後、いつものように、2階の自分の書斎に閉じこもって、なにやら、読書やら、創作やらをしていたようだ。
けれど、夜中に降りてきて、居間やら、食堂やら、廊下やらをうろうろし、その後に、美樹のいる1階の書斎にやってきた。
珈琲がないない、どこにあるのだろうと騒いでいる。
2階で飲んでいた途中のペットボトルを、夕食のときに、1階に持ってきたと思うのだけれども、どこにおいたか忘れてしまったのだという。
やれやれである。
それなら、たぶん、冷蔵庫の中でしょう。
父は、素直に、冷蔵庫を開けてみた。
あった。
そうでしょう。夏は、飲み物は、冷蔵庫に有るのは普通なのだ。
父、太郎のように、お腹が冷えるからかしらないが、冷蔵庫で冷やさずに飲むから、冷蔵庫を確認しないほうが、おかしな存在なのだ。
帰ってきた父は、夕食後、いつものように、2階の自分の書斎に閉じこもって、なにやら、読書やら、創作やらをしていたようだ。
けれど、夜中に降りてきて、居間やら、食堂やら、廊下やらをうろうろし、その後に、美樹のいる1階の書斎にやってきた。
珈琲がないない、どこにあるのだろうと騒いでいる。
2階で飲んでいた途中のペットボトルを、夕食のときに、1階に持ってきたと思うのだけれども、どこにおいたか忘れてしまったのだという。
やれやれである。
それなら、たぶん、冷蔵庫の中でしょう。
父は、素直に、冷蔵庫を開けてみた。
あった。
そうでしょう。夏は、飲み物は、冷蔵庫に有るのは普通なのだ。
父、太郎のように、お腹が冷えるからかしらないが、冷蔵庫で冷やさずに飲むから、冷蔵庫を確認しないほうが、おかしな存在なのだ。
2008年8月3日日曜日
汝、殺すなかれ2
父、四季が岳太郎がいう。
自分を不当に高く評価することや他者を不当に貶めることは、それ自体が、不正の源である。
もちろん、何事にも許容範囲がある。許容できる範囲とは、あいまいな表現で別の解釈の余地を残すものである。
その余地を残さないのは、許容外である。
もし、存在と言うことについて、許容範囲内と許容外を区切るならば、殺人を犯し、他者の生存を抹消することは、許容外ということに当たるだろう。
しかも、許容外と言う以上に、存在否定である。
人間は、人間関係で、他者との関係を成り立たせている。そのあり方を否定するのなら、自己否定か、他者否定か、関係性否定の三つのどれかの否定である。
関係性否定が出来る状況であれば、関係性を否定すればよい。
このところの、他者への殺傷事件は、関係性のない人への殺傷であり、それ自体は、己の行為の規定にかかわる問題である。
自己の行為責任に関して、他者の存在という関係で、自己の行為を規定できない存在は、社会性という点で、自己規律できていない存在である。
夏の暑い日、ますます、暑くなることをいう、父であった。
自分を不当に高く評価することや他者を不当に貶めることは、それ自体が、不正の源である。
もちろん、何事にも許容範囲がある。許容できる範囲とは、あいまいな表現で別の解釈の余地を残すものである。
その余地を残さないのは、許容外である。
もし、存在と言うことについて、許容範囲内と許容外を区切るならば、殺人を犯し、他者の生存を抹消することは、許容外ということに当たるだろう。
しかも、許容外と言う以上に、存在否定である。
人間は、人間関係で、他者との関係を成り立たせている。そのあり方を否定するのなら、自己否定か、他者否定か、関係性否定の三つのどれかの否定である。
関係性否定が出来る状況であれば、関係性を否定すればよい。
このところの、他者への殺傷事件は、関係性のない人への殺傷であり、それ自体は、己の行為の規定にかかわる問題である。
自己の行為責任に関して、他者の存在という関係で、自己の行為を規定できない存在は、社会性という点で、自己規律できていない存在である。
夏の暑い日、ますます、暑くなることをいう、父であった。
2008年8月2日土曜日
汝、殺すなかれ
父、四季が岳太郎、がいう。
若い人には、その存在を導いてくれる師の存在があるかないで、その人生が大きく左右されるだろう。
人は、自分の事を他人よりも、良い存在と思う傾向がある。それは、特に、自分が得意だとか、好きだとか思っている部分に関して、人は、自分が優れていると思いたがる強い傾向がある。
この思いがあるからこそ、その先を目指すという意志・行為にもなり、新しいものを目指そうとする原動力にもなる。けれども、他社との比較ということでは、自分自身を優れていると思うことで、他者を貶めて評価することにもなる。つまり、不当に他者を低く見下ろすのだ。
正当性の根拠を求めるならば、その道の大家となった存在であれば、他者も、過去の実績から、その大家の発言に一目置かざるを得ない。けれども、根拠なき、若いものの発言は、たとえ正当なものであっても、軽んじられて扱われる傾向がある。
社会は、すでに、出来上がっている。若者はその出来上がっている社会に、新たに入り込む新参者である。新参者は、既に社会の一員にいるものの比べ、いつでもハンディキャップを負っている。新参者であるということは、その社会の状況について知らないだろうという他者の先入観があるからである。
子供が、大人になるまでの間に、すべきことは、自分自身の身近に、尊敬できる人生の師を見つけることである。そして、生きるうえでの指針を絶えず、考えさせてくれる存在という師を身近な存在として得ておくことである。
何をしたら良いのか分からないとき、正の方向のヒントをくれるはずである。
父、四季が岳太郎は、夏の暑い日に、こんなことを言っていた。
若い人には、その存在を導いてくれる師の存在があるかないで、その人生が大きく左右されるだろう。
人は、自分の事を他人よりも、良い存在と思う傾向がある。それは、特に、自分が得意だとか、好きだとか思っている部分に関して、人は、自分が優れていると思いたがる強い傾向がある。
この思いがあるからこそ、その先を目指すという意志・行為にもなり、新しいものを目指そうとする原動力にもなる。けれども、他社との比較ということでは、自分自身を優れていると思うことで、他者を貶めて評価することにもなる。つまり、不当に他者を低く見下ろすのだ。
正当性の根拠を求めるならば、その道の大家となった存在であれば、他者も、過去の実績から、その大家の発言に一目置かざるを得ない。けれども、根拠なき、若いものの発言は、たとえ正当なものであっても、軽んじられて扱われる傾向がある。
社会は、すでに、出来上がっている。若者はその出来上がっている社会に、新たに入り込む新参者である。新参者は、既に社会の一員にいるものの比べ、いつでもハンディキャップを負っている。新参者であるということは、その社会の状況について知らないだろうという他者の先入観があるからである。
子供が、大人になるまでの間に、すべきことは、自分自身の身近に、尊敬できる人生の師を見つけることである。そして、生きるうえでの指針を絶えず、考えさせてくれる存在という師を身近な存在として得ておくことである。
何をしたら良いのか分からないとき、正の方向のヒントをくれるはずである。
父、四季が岳太郎は、夏の暑い日に、こんなことを言っていた。
2008年7月27日日曜日
暑い夏!
今年の夏は暑い!
いくつか証拠を挙げよう。
1 猫のももの脱毛が激しい! 猫は、毛が抜けて、体温調節に役立てているのだろうけど、今年は、なでるとすぐに毛が抜ける!
2 我が山荘では、アイスクリームの消費量が高くなった。
3 芭蕉の木が有るのだけど、今年は威勢が良い。バナナまでなってしまうかも?
4 扇子が手放せない。
5 父、太郎も、すでに、半そで短パンというラフな姿で、山荘内をうろつく。
6 夕方の通り雨がとても涼しく感じる。
いくつか証拠を挙げよう。
1 猫のももの脱毛が激しい! 猫は、毛が抜けて、体温調節に役立てているのだろうけど、今年は、なでるとすぐに毛が抜ける!
2 我が山荘では、アイスクリームの消費量が高くなった。
3 芭蕉の木が有るのだけど、今年は威勢が良い。バナナまでなってしまうかも?
4 扇子が手放せない。
5 父、太郎も、すでに、半そで短パンというラフな姿で、山荘内をうろつく。
6 夕方の通り雨がとても涼しく感じる。
2008年7月26日土曜日
四季が岳美樹の冒険
さて、父、四季が岳太郎のここのところの作品は、ミステリーの色彩の強い。
それで、次の作品は、なんと、美樹が主人公の冒険者らしい。
そういえば、小学生の頃、父が、美樹ならぬ、ミッキーを主人公としたミステリーの話しを子守唄がわりにということでもないが、お話しをしてくれていたときがあったのを思います。
今思うと、そのお話しは、最後の犯人の名前を聞くことなく、終わっていたように思う。
どんな話しだったろうか。もう、話の筋さえも思い出せない。ただ、美樹が主人公の探偵もののお話しであった。
今度の、美樹が主人公のお話は、そのときのお話なのだろうか。
何年かぶりに、ようやくのこと、そのときの結論が明らかになるのだろうか。
それで、次の作品は、なんと、美樹が主人公の冒険者らしい。
そういえば、小学生の頃、父が、美樹ならぬ、ミッキーを主人公としたミステリーの話しを子守唄がわりにということでもないが、お話しをしてくれていたときがあったのを思います。
今思うと、そのお話しは、最後の犯人の名前を聞くことなく、終わっていたように思う。
どんな話しだったろうか。もう、話の筋さえも思い出せない。ただ、美樹が主人公の探偵もののお話しであった。
今度の、美樹が主人公のお話は、そのときのお話なのだろうか。
何年かぶりに、ようやくのこと、そのときの結論が明らかになるのだろうか。
2008年7月21日月曜日
心地よい速度3
速度は、距離を移動するときや、物の生産量を定義するときに使う。そのときの速さである。速さがあるということは、物が変化するということになる。空間を移動したり、物質が変わる。
物質は、とりまく環境のエネルギーに応じて、状態を変える。
地球に降り注ぐ太陽のエネルギーは、植物に蓄えられ、植物を食べる動物に移り、動物はまた、自然に帰る。
人間は、環境を制御することで、快適な空間を作ることで生活する。
快適な空間は、その人が過ごしやすいと思う空間で、その想いは、その人の考えにおおきく依存する。人の考えは、人がこの世に生まれ、初期に形成される考え方で、たぶんに幼児期の環境に影響される。
環境が人の考えを形成し、その人の考えが環境形成に影響を与える。
個人の考えと環境との相互作用が、この世の中を変えている。
考えの変化と環境変化の速度は、考えの蓄積と環境を変えることの出来る能力によって決まる。科学物質的な考え方と工学的な物質制御が出来るようになって、人の自由度は急激に増した。
しかも、考え方の偏在と科学工学の能力の偏在が、経済的な不均衡を生み、世の中の状況の不均衡を生んでいる。先端部分の伝播と言うものは、人が主よりもずっと遅いと思う。
父、四季が岳太郎に言わせると、情報、物質の流通の制約が不均衡を生んでいる。その制約は、単に物質的な制約ではなく、人の考え方に側が腐れることで生まれる制約に大きく支配されてしまうことが、一番の制約であるという。
物質は、とりまく環境のエネルギーに応じて、状態を変える。
地球に降り注ぐ太陽のエネルギーは、植物に蓄えられ、植物を食べる動物に移り、動物はまた、自然に帰る。
人間は、環境を制御することで、快適な空間を作ることで生活する。
快適な空間は、その人が過ごしやすいと思う空間で、その想いは、その人の考えにおおきく依存する。人の考えは、人がこの世に生まれ、初期に形成される考え方で、たぶんに幼児期の環境に影響される。
環境が人の考えを形成し、その人の考えが環境形成に影響を与える。
個人の考えと環境との相互作用が、この世の中を変えている。
考えの変化と環境変化の速度は、考えの蓄積と環境を変えることの出来る能力によって決まる。科学物質的な考え方と工学的な物質制御が出来るようになって、人の自由度は急激に増した。
しかも、考え方の偏在と科学工学の能力の偏在が、経済的な不均衡を生み、世の中の状況の不均衡を生んでいる。先端部分の伝播と言うものは、人が主よりもずっと遅いと思う。
父、四季が岳太郎に言わせると、情報、物質の流通の制約が不均衡を生んでいる。その制約は、単に物質的な制約ではなく、人の考え方に側が腐れることで生まれる制約に大きく支配されてしまうことが、一番の制約であるという。
2008年7月20日日曜日
心地よい速度2
風鈴の音、竹の笹のざわめき、小川のせせらぎの音、夕日の沈む色の変化。それらの、音や色などは、速さに由来する。自然の速さは、大部分、心地よい。
人の生きる速度は、自然と同じ速度であるほうが心地よいだろう。もともと、自然の中から生まれてきたのだから。
生物的には、十分に納得できることではある。
父、四季が岳太郎は、心地よい速度は、自然の速度であるという。でも、その速度を逸脱した暮らしをすることで、かえって、自然の速度が懐かしくなるという。
この地域でも、父が子供の頃の風景が失われた地域と残っている地域があるという。たぶん、程よい組み合わせのバランスをとることが重要なのだという。
バランスを取るためには、有る程度、物の速さにも、対応できる速度を有することも必要で、それだけの能力開発の必要に迫られてもしまう。すなわち、考え方、思考を高度なものにしておくということが重要だという。
反射的に、答えられるという世界を作っておくためには、その場で考えるのではなく、あらかじめ考えておき、用意してある答えを引き出せばよいという状態を作っておく準備が、高速に対応するための行き方であるという。
でも、これから、幼い頃から、人工的な構築物の中で生きていく人にとって、快適な速度と言うのは、人工的な速度の中でも、違和感が小さくなるのだろうか。
人の生きる速度は、自然と同じ速度であるほうが心地よいだろう。もともと、自然の中から生まれてきたのだから。
生物的には、十分に納得できることではある。
父、四季が岳太郎は、心地よい速度は、自然の速度であるという。でも、その速度を逸脱した暮らしをすることで、かえって、自然の速度が懐かしくなるという。
この地域でも、父が子供の頃の風景が失われた地域と残っている地域があるという。たぶん、程よい組み合わせのバランスをとることが重要なのだという。
バランスを取るためには、有る程度、物の速さにも、対応できる速度を有することも必要で、それだけの能力開発の必要に迫られてもしまう。すなわち、考え方、思考を高度なものにしておくということが重要だという。
反射的に、答えられるという世界を作っておくためには、その場で考えるのではなく、あらかじめ考えておき、用意してある答えを引き出せばよいという状態を作っておく準備が、高速に対応するための行き方であるという。
でも、これから、幼い頃から、人工的な構築物の中で生きていく人にとって、快適な速度と言うのは、人工的な速度の中でも、違和感が小さくなるのだろうか。
2008年7月19日土曜日
心地よい速度1
父、四季が岳太郎曰く、人の生活が経済活動を決める。それが基本である。人の生活以上の経済を求めれば、ゆがみが生じ、どこかにしわ寄せが生まれる。そのしわ寄せは、地域格差になるかもしれないし、世代間格差になるかもしれない。
人の生活は、人の物事を進める速度に依存する。人の速度は、人間が生み出してきた物の速度に比べ遅いものである。逆に、人間は、人間が行い得ない速度を手に入れるために、さまざまなものを生み出してきたとも言うことができる。徒歩よりも、自転車、自転車よりも自動車、自動車よりも列車、列車の中でも新幹線、と、速度は増している。その速度は、人間が行いえる速度をはるかに凌いでいる。
たとえば、家電製品にしても、掃除機、冷蔵庫、それらのものだって、機能を速度に置き換えることが出来る。たとえば、物を冷やすには、氷を取ってこなければならないけれど、寒いところから氷を取ってきて物を冷やすのに、たとえば、数日の時間がかかるのに比べ、冷蔵庫があれば、すぐに物を冷やせる。物を冷やす速度と言う点では、冷蔵庫の方が圧倒的に速い。
情報収集にしても、図書館に行き調べることを考えたら、インターネット検索は圧倒的に速度が速い。
さて、速度が速くなるということは、物事の本質として何を意味しているだろう。最初があり、すぐに結果が来るということだから、途中の過程が、想定的に短くなることになる。人の人生は、生まれてから死ぬまで、その期間はほぼ百年である。人間にとって重要なのは、百年の過程である。ところが、物の世界では、過程を縮小し、結果の連続を積み重ねる方向に動いている。人間が物の速度に追いつけていない結果、何が生じるかといえば、考えずに行動せざるを得ない、もしくは、人の考えの速度の速いほうが物の速度に近づくので、速度の速い人間ほど有利な世界が形成される。速ければよいという物の特性に、人間が引きずられ、優劣が生じる世界になってしまうのだ。
人の生活は、人の物事を進める速度に依存する。人の速度は、人間が生み出してきた物の速度に比べ遅いものである。逆に、人間は、人間が行い得ない速度を手に入れるために、さまざまなものを生み出してきたとも言うことができる。徒歩よりも、自転車、自転車よりも自動車、自動車よりも列車、列車の中でも新幹線、と、速度は増している。その速度は、人間が行いえる速度をはるかに凌いでいる。
たとえば、家電製品にしても、掃除機、冷蔵庫、それらのものだって、機能を速度に置き換えることが出来る。たとえば、物を冷やすには、氷を取ってこなければならないけれど、寒いところから氷を取ってきて物を冷やすのに、たとえば、数日の時間がかかるのに比べ、冷蔵庫があれば、すぐに物を冷やせる。物を冷やす速度と言う点では、冷蔵庫の方が圧倒的に速い。
情報収集にしても、図書館に行き調べることを考えたら、インターネット検索は圧倒的に速度が速い。
さて、速度が速くなるということは、物事の本質として何を意味しているだろう。最初があり、すぐに結果が来るということだから、途中の過程が、想定的に短くなることになる。人の人生は、生まれてから死ぬまで、その期間はほぼ百年である。人間にとって重要なのは、百年の過程である。ところが、物の世界では、過程を縮小し、結果の連続を積み重ねる方向に動いている。人間が物の速度に追いつけていない結果、何が生じるかといえば、考えずに行動せざるを得ない、もしくは、人の考えの速度の速いほうが物の速度に近づくので、速度の速い人間ほど有利な世界が形成される。速ければよいという物の特性に、人間が引きずられ、優劣が生じる世界になってしまうのだ。
2008年7月13日日曜日
何もしないのが一番省エネ
世の中、物価高である。
こんなとき、何をすればよいのかと父、太郎に尋ねると、何もしないのが一番と答える。
石油も必要とする人が多いから値が上がる。つまり、ほしがるひとがいないのなら、値段もあがらないという。
幸い、父は経済的である。服もほとんど買わない、何かを集めるという趣味もない。旅も嫌いである。第一、仕事はしょうがなく出掛かけるが、仕事でなければ、出かけない。自分から、何かの消費活動をするということがないのでる。買うものといえば、本くらいだろうか。あとは、寝ているか、考えているからしい。
つまり、考えるのも寝てるのも、はたから見ると、何もしていないということだ。
本人が、それで満足しているのだから、これほど、経済的なこともない。
しかし、父、太郎は、出かけないし、何もしない割りに、割と世の中のことを知っている。どうも、若いときは、案外、いろいろと、していた父子がある。
うちの片隅に、フルセットに近いカメラがあったり、パソコンは、古くから使っていたようだし、アルプスの山々も歩いたことがあるらしいし、温泉も、有馬温泉や白骨温泉など、比較的有名どころに行っていたりする。
かといって、理学博士であったりするのだから、若いときのことは、謎に包まれている。
こんなとき、何をすればよいのかと父、太郎に尋ねると、何もしないのが一番と答える。
石油も必要とする人が多いから値が上がる。つまり、ほしがるひとがいないのなら、値段もあがらないという。
幸い、父は経済的である。服もほとんど買わない、何かを集めるという趣味もない。旅も嫌いである。第一、仕事はしょうがなく出掛かけるが、仕事でなければ、出かけない。自分から、何かの消費活動をするということがないのでる。買うものといえば、本くらいだろうか。あとは、寝ているか、考えているからしい。
つまり、考えるのも寝てるのも、はたから見ると、何もしていないということだ。
本人が、それで満足しているのだから、これほど、経済的なこともない。
しかし、父、太郎は、出かけないし、何もしない割りに、割と世の中のことを知っている。どうも、若いときは、案外、いろいろと、していた父子がある。
うちの片隅に、フルセットに近いカメラがあったり、パソコンは、古くから使っていたようだし、アルプスの山々も歩いたことがあるらしいし、温泉も、有馬温泉や白骨温泉など、比較的有名どころに行っていたりする。
かといって、理学博士であったりするのだから、若いときのことは、謎に包まれている。
2008年7月12日土曜日
夏は何かと面倒くさい!
梅雨でじめじめしていると思っていたら、あっという間に、夏がやってきてしまった。
今年は、紫陽花咲く鎌倉にいけなかったので、来年こそは行こうと思っていたら、父は、会社帰りに電車で、寝ぼけていたか、寝過ごして、北鎌倉まで行ったらしい。美樹も、ぼけっとしていて、藤沢まで行ってしまったことがある。まあ、何かと無駄があるのが人間なのだ。夏は、暑すぎるのだ。沖縄は好きだけど、都会が暑いのは、いやなものだ。でもって、夏はめんどくさいなあ、と口癖になる。
すると、父、太郎が、「人生はそもそも、面倒くさいものである。そもそも、人間は、生まれたときは何も出来ないものが、社会で生きてゆくようになるために、いろんなことを身に付けてゆかなければならない。すなわち、出来ないことをできるようにしてゆかなければならないのだ。出来ないことをできるようにするのは、面倒なことである。出来ることをしていたほうが楽だ。つまり、自分の出来ることをしているほうが楽だけれど、自分の出来ないことをするほうがえてして面倒だということは、自分自身の能力がおおきく、質の良いものであれば、面倒なことを少なくなる。人生において、少しずつ、自分の能力向上をしてゆくけば、自然とめんどくさいことは減少するのである。美樹はまだ、成長途中なのであるから、面倒くさいことが多いのは当たり前である。ただ、100%面倒なことというのは、余りにも、今有る自分の能力とはかけ離れたことなので、できっこないこともあるけれど、今ある能力の周辺を延ばしてゆくのは、面倒くさいというその先に、面白みや楽しみが待っているものだから、まあ、ちょっとくらい面倒なことならば、やってみるのがよろしい。」、「暑いなあ、寝てよう」といって2階へ行ってしまう。美樹はひそかに、これを、「冬眠」でもいなく、「仮眠」でもなく、「夏眠」と呼んでいる。
今年は、紫陽花咲く鎌倉にいけなかったので、来年こそは行こうと思っていたら、父は、会社帰りに電車で、寝ぼけていたか、寝過ごして、北鎌倉まで行ったらしい。美樹も、ぼけっとしていて、藤沢まで行ってしまったことがある。まあ、何かと無駄があるのが人間なのだ。夏は、暑すぎるのだ。沖縄は好きだけど、都会が暑いのは、いやなものだ。でもって、夏はめんどくさいなあ、と口癖になる。
すると、父、太郎が、「人生はそもそも、面倒くさいものである。そもそも、人間は、生まれたときは何も出来ないものが、社会で生きてゆくようになるために、いろんなことを身に付けてゆかなければならない。すなわち、出来ないことをできるようにしてゆかなければならないのだ。出来ないことをできるようにするのは、面倒なことである。出来ることをしていたほうが楽だ。つまり、自分の出来ることをしているほうが楽だけれど、自分の出来ないことをするほうがえてして面倒だということは、自分自身の能力がおおきく、質の良いものであれば、面倒なことを少なくなる。人生において、少しずつ、自分の能力向上をしてゆくけば、自然とめんどくさいことは減少するのである。美樹はまだ、成長途中なのであるから、面倒くさいことが多いのは当たり前である。ただ、100%面倒なことというのは、余りにも、今有る自分の能力とはかけ離れたことなので、できっこないこともあるけれど、今ある能力の周辺を延ばしてゆくのは、面倒くさいというその先に、面白みや楽しみが待っているものだから、まあ、ちょっとくらい面倒なことならば、やってみるのがよろしい。」、「暑いなあ、寝てよう」といって2階へ行ってしまう。美樹はひそかに、これを、「冬眠」でもいなく、「仮眠」でもなく、「夏眠」と呼んでいる。
2008年7月6日日曜日
山荘人
「まりもっこり」は、北海道の「まりこ」+「もっこり」だ。観光に訪れる人に、ちょっとした、楽しみを与えている?のである。
「どてレンジャー」は、荒川の「どて」+「レンジャー」だ。五人組みの戦闘隊で、荒川の土手が決壊するしないように、日々、努力しているのである。
「山荘人」は。四季が岳の「山荘」+「人」である。
父、太郎曰く、「山荘人」は、「三そう人」を目指すのだという。
一つ目の「そう」は、「創」で、創造する力であるという。
二つ目の「そう」は、「想」で、自分が出会ういろいろな出来事、人、物について、思い巡らすことであるという。
三つ目の「そう」は、「操」で、自分自身を含め、いろいろなことを操る、制御することであるという。
もっとも、最後には、四つ目の「葬」がくるんだけど、それまで、三つの「創・想・操」に努力すべしと言う。
「どてレンジャー」は、荒川の「どて」+「レンジャー」だ。五人組みの戦闘隊で、荒川の土手が決壊するしないように、日々、努力しているのである。
「山荘人」は。四季が岳の「山荘」+「人」である。
父、太郎曰く、「山荘人」は、「三そう人」を目指すのだという。
一つ目の「そう」は、「創」で、創造する力であるという。
二つ目の「そう」は、「想」で、自分が出会ういろいろな出来事、人、物について、思い巡らすことであるという。
三つ目の「そう」は、「操」で、自分自身を含め、いろいろなことを操る、制御することであるという。
もっとも、最後には、四つ目の「葬」がくるんだけど、それまで、三つの「創・想・操」に努力すべしと言う。
2008年7月5日土曜日
地球温暖化?
山荘の庭には、アメリカンデイゴの木がある。
沖縄にあるデイゴに似て、赤い花が咲くが、熱帯性ではなく、この辺の気候でも、枯れずに毎年花が咲く。
10年くらい前に、父、太郎が植えたもので、最初のころは、冬は、むしろで覆って、越冬させていたらしい。
でも、このごろは、3メートルくらいの大きな木になったので、父も、手を抜いているというか、面倒くさいのか、太い幹になってきているので、大丈夫と思っているのか、枯れた部分の枝を切り落とすだけで、筵を巻くこともなくなっている。
それでも、枯れずに、夏に花を咲かせる。
今年は、梅雨の前に花が咲いた。ずいぶんと速いうちからの開花だ。たぶん、これから、夏までの4ヶ月ほどは、だんだん、花の数が増えてゆくんだろう。
こんな、身近なところにも、地球の温暖化が見え隠れする。
木はいい。緑はいい。二酸化炭素を固定してくれる。
沖縄にあるデイゴに似て、赤い花が咲くが、熱帯性ではなく、この辺の気候でも、枯れずに毎年花が咲く。
10年くらい前に、父、太郎が植えたもので、最初のころは、冬は、むしろで覆って、越冬させていたらしい。
でも、このごろは、3メートルくらいの大きな木になったので、父も、手を抜いているというか、面倒くさいのか、太い幹になってきているので、大丈夫と思っているのか、枯れた部分の枝を切り落とすだけで、筵を巻くこともなくなっている。
それでも、枯れずに、夏に花を咲かせる。
今年は、梅雨の前に花が咲いた。ずいぶんと速いうちからの開花だ。たぶん、これから、夏までの4ヶ月ほどは、だんだん、花の数が増えてゆくんだろう。
こんな、身近なところにも、地球の温暖化が見え隠れする。
木はいい。緑はいい。二酸化炭素を固定してくれる。
2008年6月29日日曜日
ひげ、毛を抜くなよ
美樹、気を抜くなよ、と父、太郎がいうので、
ひげ、毛を抜くなよ、と父、太郎にいい、イエイと親指を立てたら
イエイ、と親指を立てて、
もも、いくら抜けても大丈夫だからいいよな、と猫にいいながら、頭ですりすりして、去っていった。
ももは、手を出すと手を出すのだが、父、太郎が、頭ですりすりしても、手を出さない。すりすりされたところをなめるくらいである。
なぜ、なめるのかは分からないが、父、太郎は、爪の垢をせんじて飲むのならず、髪の毛のすりすりをなめたほうが、頭が良くなる、良くなる、と訳の分からないことを言いながら去ってゆく。
他にも、とっぴに、踊りだしたり、奇妙なことを言い出したりするので、一緒に、外出するときには、要注意である。
年を取ると、羞恥心と言うものがなくなるのだろうか。
ひげ、毛を抜くなよ、と父、太郎にいい、イエイと親指を立てたら
イエイ、と親指を立てて、
もも、いくら抜けても大丈夫だからいいよな、と猫にいいながら、頭ですりすりして、去っていった。
ももは、手を出すと手を出すのだが、父、太郎が、頭ですりすりしても、手を出さない。すりすりされたところをなめるくらいである。
なぜ、なめるのかは分からないが、父、太郎は、爪の垢をせんじて飲むのならず、髪の毛のすりすりをなめたほうが、頭が良くなる、良くなる、と訳の分からないことを言いながら去ってゆく。
他にも、とっぴに、踊りだしたり、奇妙なことを言い出したりするので、一緒に、外出するときには、要注意である。
年を取ると、羞恥心と言うものがなくなるのだろうか。
2008年6月28日土曜日
ハランの花
今年は、ハランに花が咲いた。
ハランは、蘭の一種であることが、花を見ると実感させられる。
庭のハランは、2株ある。ひとつは、くすんだ緑色の株、もう一つは、白線の入った薄い緑色の株だ。二株とも、父が10年前くらいに植えたものらしい。葉の丈は人の背丈ほどに伸びている。
このうち、白線の入った薄緑のほうのハランに2本、花芽が伸びた。花芽のほうが葉よりも高く伸びていて、2mほどもあるだろうか。2本とも、薄紫色で、じぐざくと曲がりながら伸びていて、かどかどから5本から10本の花が密集している軸が伸びている。
軸の先の花は、くすんだ赤色で、蕾上の長細いその赤の先は、黄色いめしべが数本のびている。
じぐざぐ状に10本て、それぞれに、5~10本の花がついていて、それが2本だから、100~200個も花がついた計算になる。これまで10年、一度も咲かずにきたことを思えば、計算してみると、0から100以上の花がつくという劇的な変化だというのを実感する。
ハランは、蘭の一種であることが、花を見ると実感させられる。
庭のハランは、2株ある。ひとつは、くすんだ緑色の株、もう一つは、白線の入った薄い緑色の株だ。二株とも、父が10年前くらいに植えたものらしい。葉の丈は人の背丈ほどに伸びている。
このうち、白線の入った薄緑のほうのハランに2本、花芽が伸びた。花芽のほうが葉よりも高く伸びていて、2mほどもあるだろうか。2本とも、薄紫色で、じぐざくと曲がりながら伸びていて、かどかどから5本から10本の花が密集している軸が伸びている。
軸の先の花は、くすんだ赤色で、蕾上の長細いその赤の先は、黄色いめしべが数本のびている。
じぐざぐ状に10本て、それぞれに、5~10本の花がついていて、それが2本だから、100~200個も花がついた計算になる。これまで10年、一度も咲かずにきたことを思えば、計算してみると、0から100以上の花がつくという劇的な変化だというのを実感する。
2008年6月22日日曜日
本格推理 物語が変わるとき、終焉と創生
こんどの、父の、作品は、「本格推理 物語が変わるとき、終焉と創生」というタイトルである。
表紙のカバーは、有名な本格ミステリー作家のイラストで飾られている。どの絵も、よく描けていている。みていて、とても楽しいし、良い雰囲気である。手に持っているものや、壁の絵にも注目してね。順不同だな。
実際に、これだけの人が一同に会したことは、歴史上、ない。でも、もし、これだけの人々が一同に顔を合わせたなら、どんな会話がなされたことだろう。
父に聞くと、作中作みたいなものでもあり、本格推理についての、エッセイや評論風でもあり、でも、推理もありと、また、複雑怪奇なものとなっておるようである。
美樹は、「我が愛しのアイリーン」に登場したので、2度目の登場になる。父に聞くと、昔のミステリーをまとめることを計画しているんだという。3度目の登場も、間近かもしれないな。
表紙のカバーは、有名な本格ミステリー作家のイラストで飾られている。どの絵も、よく描けていている。みていて、とても楽しいし、良い雰囲気である。手に持っているものや、壁の絵にも注目してね。順不同だな。
実際に、これだけの人が一同に会したことは、歴史上、ない。でも、もし、これだけの人々が一同に顔を合わせたなら、どんな会話がなされたことだろう。
父に聞くと、作中作みたいなものでもあり、本格推理についての、エッセイや評論風でもあり、でも、推理もありと、また、複雑怪奇なものとなっておるようである。
美樹は、「我が愛しのアイリーン」に登場したので、2度目の登場になる。父に聞くと、昔のミステリーをまとめることを計画しているんだという。3度目の登場も、間近かもしれないな。
2008年6月21日土曜日
情報端末進化
今日は、父、太郎とともに、携帯を変更してきた。
父の携帯が壊れたので、買い換えたがっていたので、一緒に変えてもらった。
2年で、携帯はずいぶん、進化した。
今年の夏モデルはまだ発売されてなかったの、春モデルから選んどいた。
二人で、S社にしたので、父とは、話し放題である。といっても、父と話すことは、ほとんどない。
今度は、ワンセグなので、TVも見れる。でも最近のTVはつまんないので、TVをみることもあんまりない。 もっぱら最近は、ディズニーチャンネルとかだ。
今度は、情報端末で、ヤフーを検索できる。情報検索は、商品購入に役立つかな。けれど、父、曰く、情報に振り回されずに、情報を制御することが大切。情報が目的ではなく、その先にある目的のための手がかりなだけなのだから、情報の扱い方に気をつけるように。発信性、信頼性、目的性、印象性、影響性・・・。
でもやっぱり、メールだな。
これで、おたく道、まっしぐらだな。
父の携帯が壊れたので、買い換えたがっていたので、一緒に変えてもらった。
2年で、携帯はずいぶん、進化した。
今年の夏モデルはまだ発売されてなかったの、春モデルから選んどいた。
二人で、S社にしたので、父とは、話し放題である。といっても、父と話すことは、ほとんどない。
今度は、ワンセグなので、TVも見れる。でも最近のTVはつまんないので、TVをみることもあんまりない。 もっぱら最近は、ディズニーチャンネルとかだ。
今度は、情報端末で、ヤフーを検索できる。情報検索は、商品購入に役立つかな。けれど、父、曰く、情報に振り回されずに、情報を制御することが大切。情報が目的ではなく、その先にある目的のための手がかりなだけなのだから、情報の扱い方に気をつけるように。発信性、信頼性、目的性、印象性、影響性・・・。
でもやっぱり、メールだな。
これで、おたく道、まっしぐらだな。
2008年6月15日日曜日
古畑任三郎のパロディ精神
久しぶりの任三郎である。
といっても中学生である。
中学生であるので、事件そのものは、なんというか、たいしたことはないというか、ホームズの事件である。
シャーロック・ホームズの事件をパロっている。赤毛連盟、マスグレイブ家の儀式、美しき自転車乗り・・・、そっくりな事件が、任三郎が、探偵事務所を開設したとたんに、次々と相談されてくる。極めつけは、ホームずばりに、母親の連れてきた男のことについて、推理し、言い当てるところかな。なんともユーモラスで、しかも、売れない作家とはわびしいさが漂う。しかし、ワトソン役の向島君は、本物の馬鹿であるねえ。
任三郎といえば、刑事コロンボの日本版であることは、周知の事実である。そういえば、父、太郎は、このところ発売されているコロンボのCDを買って、昔を懐かしんでいるようだ。CDでは、父、太郎は、ジェレミー・ブレットのホームズ物語についてもCDをBOXで買って全巻みたらしい。美樹としては、ホームズ君よりも、ポワロ君の方が好きなのだが・・・。ムッシュ、モナミ。
今回は、コロンボではなく、ホームズのパロディになっている。三谷幸喜にとっての中学生の思い出の一つが、シャーロック・ホームズの物語でもあるのだろうか。この調子で、高校生や大学生の任三郎が、次々に、有名探偵をパロッて登場するシリーズ化になったらいいなあ。
といっても中学生である。
中学生であるので、事件そのものは、なんというか、たいしたことはないというか、ホームズの事件である。
シャーロック・ホームズの事件をパロっている。赤毛連盟、マスグレイブ家の儀式、美しき自転車乗り・・・、そっくりな事件が、任三郎が、探偵事務所を開設したとたんに、次々と相談されてくる。極めつけは、ホームずばりに、母親の連れてきた男のことについて、推理し、言い当てるところかな。なんともユーモラスで、しかも、売れない作家とはわびしいさが漂う。しかし、ワトソン役の向島君は、本物の馬鹿であるねえ。
任三郎といえば、刑事コロンボの日本版であることは、周知の事実である。そういえば、父、太郎は、このところ発売されているコロンボのCDを買って、昔を懐かしんでいるようだ。CDでは、父、太郎は、ジェレミー・ブレットのホームズ物語についてもCDをBOXで買って全巻みたらしい。美樹としては、ホームズ君よりも、ポワロ君の方が好きなのだが・・・。ムッシュ、モナミ。
今回は、コロンボではなく、ホームズのパロディになっている。三谷幸喜にとっての中学生の思い出の一つが、シャーロック・ホームズの物語でもあるのだろうか。この調子で、高校生や大学生の任三郎が、次々に、有名探偵をパロッて登場するシリーズ化になったらいいなあ。
2008年6月14日土曜日
単純に必要なもの
必要なものを必要なときに手に入れる。
父、太郎曰く、消費と生産の基本は、必要であるという。
必要とは、必ず要するものということで、不要ではないということ。存在する意味のあるもの。不足でも過剰でもないこと。
求めすぎても、求めなくても、適切ではない。
適切とは、人と人の存在に見合った状況とが合致していること。
簡単がよい。簡単が美しい。不要なものはないほうがいい。必要なもののみがあることが良い。
そんなわけで、父、太郎の生活は、単純。簡単である。
なんせ、考えることが好きなのだから。見ていると、単に、いるだけである。
ただ、本人曰く、頭の中は回転している。回転していないこともあるが、それでも、行動していない分、回転している、なんていう。
こんなふうに、父、太郎が簡単なのだから、その状況も簡単である。
ただ、ときたま、へんなことを言うこともある。
やっぱり、考えているんだと思うこともあるが、分かりにくくて困ることが多い。
父、太郎曰く、消費と生産の基本は、必要であるという。
必要とは、必ず要するものということで、不要ではないということ。存在する意味のあるもの。不足でも過剰でもないこと。
求めすぎても、求めなくても、適切ではない。
適切とは、人と人の存在に見合った状況とが合致していること。
簡単がよい。簡単が美しい。不要なものはないほうがいい。必要なもののみがあることが良い。
そんなわけで、父、太郎の生活は、単純。簡単である。
なんせ、考えることが好きなのだから。見ていると、単に、いるだけである。
ただ、本人曰く、頭の中は回転している。回転していないこともあるが、それでも、行動していない分、回転している、なんていう。
こんなふうに、父、太郎が簡単なのだから、その状況も簡単である。
ただ、ときたま、へんなことを言うこともある。
やっぱり、考えているんだと思うこともあるが、分かりにくくて困ることが多い。
2008年6月8日日曜日
人間活動と地球崩壊
父、太郎が言う。
社会構造が、いま、歴史の流れに逆行しているという。
大昔、国は、ほんの一握りの王族が支配していた。神からの血筋と言う名分のもとの支配だった。王族は増殖し、各地にその地の王を打ちたて、支配した。けれど、各地に有力な実力者が現れるにいたり、王の血統のみの支配には破綻が生じ、武力に勝る者が取って代わった。ここに、王家以外の者の支配が始まる。武力の戦いでは強いものが勝つ。やがて、王家は別の武力勢力に負け、別の支配者が生まれる。血筋ではなく力が支配力の源になる。力を増大させるには、国力を強める必要がある。国力を強めることで、民衆が力を持つ。経済力を持ったものが強くなるのだ。経済支配は、民衆の力を増大させ、民主主義を生む。経済成長は、生産性、技術力などの知的な水準によって生み出される。
この流れは、力は一極集中から分散される方向を示す。一部の権力者の支配から、多くの人々の協議的支配への方向性を示す。血筋、武力、経済、技術力と、実態支配の方向性を示す。
ところが、ここに来て、社会は、大衆の力が弱まり、一部の優位者の社会になりつつある。経済性の強まり、技術性の強まりが、中枢機能強化へとつながり、社会の中枢のみが支配力をもつ構造に移行しつつあるのだ。しかも、優位者優位の構造が強まっている。優位者が優位者の強みを押し出しすぎているのだ。しかも、優位者は、その優位者優位を隠蔽するために、実態と虚構を生み出し、実態とは異なる、部分に作用しているという。すなわち、生産と消費という実体経済ではなく、その裏の関係にある貸付と貸し出しという金融経済で支配しているという。
もっとも、父、太郎は言う。
このままでは地球が持たない。
実体経済は、物質変化とエネルギー変換という科学世界というもう一つの循環と繋がっている。実体経済の活動は科学世界、すなわち、この地球環境の変化を生み出すという。だかた、金融経済の虚構は、一方で、地球と言う限定された閉鎖環境の中では、平衡のずれを生み、やがては平衡崩壊し、環境が持たなくなる。この生存の場自体が崩壊してしまうなら、支配力に意味もなくなる。だから、環境崩壊になることを選択するか、自己規制をすることを選択するか、どちらかを選ぶことになるだろうという。
ようは、人間の欲望がこの世界を壊しつつあるのだという。自分のことばかりではなく、他者を、自然を、地球全体を守ることを意図し、全てが共存することを目的に、制度や行為をしなければいけない段階にあるという。
社会構造が、いま、歴史の流れに逆行しているという。
大昔、国は、ほんの一握りの王族が支配していた。神からの血筋と言う名分のもとの支配だった。王族は増殖し、各地にその地の王を打ちたて、支配した。けれど、各地に有力な実力者が現れるにいたり、王の血統のみの支配には破綻が生じ、武力に勝る者が取って代わった。ここに、王家以外の者の支配が始まる。武力の戦いでは強いものが勝つ。やがて、王家は別の武力勢力に負け、別の支配者が生まれる。血筋ではなく力が支配力の源になる。力を増大させるには、国力を強める必要がある。国力を強めることで、民衆が力を持つ。経済力を持ったものが強くなるのだ。経済支配は、民衆の力を増大させ、民主主義を生む。経済成長は、生産性、技術力などの知的な水準によって生み出される。
この流れは、力は一極集中から分散される方向を示す。一部の権力者の支配から、多くの人々の協議的支配への方向性を示す。血筋、武力、経済、技術力と、実態支配の方向性を示す。
ところが、ここに来て、社会は、大衆の力が弱まり、一部の優位者の社会になりつつある。経済性の強まり、技術性の強まりが、中枢機能強化へとつながり、社会の中枢のみが支配力をもつ構造に移行しつつあるのだ。しかも、優位者優位の構造が強まっている。優位者が優位者の強みを押し出しすぎているのだ。しかも、優位者は、その優位者優位を隠蔽するために、実態と虚構を生み出し、実態とは異なる、部分に作用しているという。すなわち、生産と消費という実体経済ではなく、その裏の関係にある貸付と貸し出しという金融経済で支配しているという。
もっとも、父、太郎は言う。
このままでは地球が持たない。
実体経済は、物質変化とエネルギー変換という科学世界というもう一つの循環と繋がっている。実体経済の活動は科学世界、すなわち、この地球環境の変化を生み出すという。だかた、金融経済の虚構は、一方で、地球と言う限定された閉鎖環境の中では、平衡のずれを生み、やがては平衡崩壊し、環境が持たなくなる。この生存の場自体が崩壊してしまうなら、支配力に意味もなくなる。だから、環境崩壊になることを選択するか、自己規制をすることを選択するか、どちらかを選ぶことになるだろうという。
ようは、人間の欲望がこの世界を壊しつつあるのだという。自分のことばかりではなく、他者を、自然を、地球全体を守ることを意図し、全てが共存することを目的に、制度や行為をしなければいけない段階にあるという。
2008年6月7日土曜日
紫陽花の咲くころ
梅雨に入りました。
紫陽花の花咲くこのごろです。
紫陽花は、赤とも青とも紫ともいえず、その色も、天気、時間、見る位置によって、微妙に変わります。
紫陽花色七変化。
四月の桜の後の五月は、花の季節でした。ジャーマンアイリス、藤(紫、白、ピンク)、木蓮(紫、黄)、テッセン、丁字蔓・・・
六月は葉の季節です。特に、雨にぬれた葉に風情があります。紫陽花も、花というよりも、雨にぬれた葉のように葉のなかの葉にように見えたりもします。
紫陽花には、白い花を付ける紫陽花もあり、葉に蝶が行儀よく並んでいるようにも見えます。かわいらしさ、群れをなすというのも、この季節の花の特徴のように思います。それに、雨にぬれてこそ美しいというのが、この季節の花や葉の特徴のようです。
紫陽花の花咲くこのごろです。
紫陽花は、赤とも青とも紫ともいえず、その色も、天気、時間、見る位置によって、微妙に変わります。
紫陽花色七変化。
四月の桜の後の五月は、花の季節でした。ジャーマンアイリス、藤(紫、白、ピンク)、木蓮(紫、黄)、テッセン、丁字蔓・・・
六月は葉の季節です。特に、雨にぬれた葉に風情があります。紫陽花も、花というよりも、雨にぬれた葉のように葉のなかの葉にように見えたりもします。
紫陽花には、白い花を付ける紫陽花もあり、葉に蝶が行儀よく並んでいるようにも見えます。かわいらしさ、群れをなすというのも、この季節の花の特徴のように思います。それに、雨にぬれてこそ美しいというのが、この季節の花や葉の特徴のようです。
2008年6月1日日曜日
心地よい場所
ようやく温かくなってきた。
ももの定位置も、今までの変わってきた。
ももには、いくつかお気に入りの定位置がある。
玄関横の窓枠の中、応接室のテレビの上、飾り棚の上、応接室の東の出窓の中央、応接室の南の窓の中央、応接室のソファの上、応接室の椅子の上、今の西の窓の中央、今の簡易ベッドの上、食堂の椅子の上などがお気に入りの場所である。
寝床の定位置は、ある程度、季節変動する。
冬は、応接室のテレビの上の位置がお気に入りだ。温かいのだろう。
春は、それが今の簡易ベッドの上がお気に入りに変わった。
昼間の位置は、日差しによって変わったりする。
美樹が応接室に行くと、やってくる。それで、ひざの上に載ったりする。けれど、父が来てちょっかいを出すと、嫌がって逃げ出してしまう。
父は、それでも、ちょっかいを出す。ちょっかいを出して、「がお」と吼えられて、それでもちょっかいを出すものだから、逃げられる。
ももの定位置も、今までの変わってきた。
ももには、いくつかお気に入りの定位置がある。
玄関横の窓枠の中、応接室のテレビの上、飾り棚の上、応接室の東の出窓の中央、応接室の南の窓の中央、応接室のソファの上、応接室の椅子の上、今の西の窓の中央、今の簡易ベッドの上、食堂の椅子の上などがお気に入りの場所である。
寝床の定位置は、ある程度、季節変動する。
冬は、応接室のテレビの上の位置がお気に入りだ。温かいのだろう。
春は、それが今の簡易ベッドの上がお気に入りに変わった。
昼間の位置は、日差しによって変わったりする。
美樹が応接室に行くと、やってくる。それで、ひざの上に載ったりする。けれど、父が来てちょっかいを出すと、嫌がって逃げ出してしまう。
父は、それでも、ちょっかいを出す。ちょっかいを出して、「がお」と吼えられて、それでもちょっかいを出すものだから、逃げられる。
2008年5月31日土曜日
何の戦争?
ここんところ山麓は騒がしい。
大津波に大地震、異常な殺人・死体遺棄がおきていて、もうそろそろお笑い芸人の芸もネタ切れだ、おもしろい番組も少なくなった、とつぶやいた。
そしたら、父、太郎は、物価の一斉上昇でも賃金が上がらないこと、賃金が上がらないけれどもとられる税金が上がること、形式的な制度と実際に起こっていることの乖離なんか変なことばかりだねと、難しいことを言いながら、でも賛成しているようだ。
このところ、図書館戦争がお気に入りだったけど。でも、シリーズ全て、読破した。次はないものかなと父に聞くと、
戦う前にまず戦いの意味を考え、目的についての有効な手段を選び、結果としてどうなるかを予測し、そのなかから、最善と思われる選択をし、確実に実行してゆく。でも、戦争するもまえに、いらない仕事をなくし仕事の質を高めること、生活の向上に必要なもの、組織を作ること、社会のバランスを良い方向にする制度を作ること、統合的な指揮命令のできることが必要だよなという。
んーん、これって、いったい何のことなんだ?
大津波に大地震、異常な殺人・死体遺棄がおきていて、もうそろそろお笑い芸人の芸もネタ切れだ、おもしろい番組も少なくなった、とつぶやいた。
そしたら、父、太郎は、物価の一斉上昇でも賃金が上がらないこと、賃金が上がらないけれどもとられる税金が上がること、形式的な制度と実際に起こっていることの乖離なんか変なことばかりだねと、難しいことを言いながら、でも賛成しているようだ。
このところ、図書館戦争がお気に入りだったけど。でも、シリーズ全て、読破した。次はないものかなと父に聞くと、
戦う前にまず戦いの意味を考え、目的についての有効な手段を選び、結果としてどうなるかを予測し、そのなかから、最善と思われる選択をし、確実に実行してゆく。でも、戦争するもまえに、いらない仕事をなくし仕事の質を高めること、生活の向上に必要なもの、組織を作ること、社会のバランスを良い方向にする制度を作ること、統合的な指揮命令のできることが必要だよなという。
んーん、これって、いったい何のことなんだ?
2008年5月25日日曜日
自己規定と統合的世界観へ
父、太郎は、世の中のことを良く知り、自分自身の中に、世の中がどのような世の中なのかを認識する必要があるという。
世の中は、競争の時代から協調の時代に移行しつつあるという。個人にしても、会社にしても、より良い生活なり、活動なりを求めるには、個別の存在が勝手な活動をすることは、全体としてみたら、不幸な方向に向かうという。
たしかに、個人的な権利は保障され、制約事項が薄れ、自由度が増した現代では、有る程度、わがままに振舞うことが出来るという。その一方で、人間関係、会社関係のつながりは、深くすることも出来るし希薄な関係をつくることもできるという二極化が生じた。
この二極化は、関係性が売るれることで、孤立的な存在に陥りやすいという危険性をもっている。一方では、協調性を重視するあまり、主体性を失いがちになるという危険性をもはらんでいる。
自由度の増加は、自分自身の存在を自分自身で規定するところから始めなくてはならないと、父は言う。
自分自身を自分で規定するためには、世の中のことを知り、本質を理解し、価値を見極め、全体的、統合的、普遍的に良い方向性を予見し、その方向に動くことだという。
世の中は、競争の時代から協調の時代に移行しつつあるという。個人にしても、会社にしても、より良い生活なり、活動なりを求めるには、個別の存在が勝手な活動をすることは、全体としてみたら、不幸な方向に向かうという。
たしかに、個人的な権利は保障され、制約事項が薄れ、自由度が増した現代では、有る程度、わがままに振舞うことが出来るという。その一方で、人間関係、会社関係のつながりは、深くすることも出来るし希薄な関係をつくることもできるという二極化が生じた。
この二極化は、関係性が売るれることで、孤立的な存在に陥りやすいという危険性をもっている。一方では、協調性を重視するあまり、主体性を失いがちになるという危険性をもはらんでいる。
自由度の増加は、自分自身の存在を自分自身で規定するところから始めなくてはならないと、父は言う。
自分自身を自分で規定するためには、世の中のことを知り、本質を理解し、価値を見極め、全体的、統合的、普遍的に良い方向性を予見し、その方向に動くことだという。
2008年5月24日土曜日
俗・欲望先生
こないだ、父、太郎が、井上喜久子という声優がいるという。神奈川県の出身だそうだ。永遠の17歳であるのだといっているのだという。父は、永遠の28歳などと言っているから、似ているのだろうか?
なんでも、俗・欲望先生にでているという。
それは、俗・絶望先生だろう!
でもって調べてみると、井上喜久子本人役で声優ででているのだという。声優って、アニメのキャラクターになって声を作って役に当たるのが普通だろうけど、この役なら地のままやれる!
父は、文章の世界にいるけど、言葉にすれば、また、違った世界になる。
言葉は、書く読むということと、話す聞く、それに、文字の記号として理解するしない、さらに音として理解するしない(言語としてではなく音として)という次元があると思う。
ひとつの言葉でも、どんなふうに話すか、発音するかで、まったく違う。心地よい言葉にもなるし、聞きたくない言葉にもなる。生理的なことかもしれないけれど、声の持つ魔力があると思う。悪魔が、西岡すみこのような、お笑い芸人の声で、のろいの言葉をかけても凄みがない。
なんでも、俗・欲望先生にでているという。
それは、俗・絶望先生だろう!
でもって調べてみると、井上喜久子本人役で声優ででているのだという。声優って、アニメのキャラクターになって声を作って役に当たるのが普通だろうけど、この役なら地のままやれる!
父は、文章の世界にいるけど、言葉にすれば、また、違った世界になる。
言葉は、書く読むということと、話す聞く、それに、文字の記号として理解するしない、さらに音として理解するしない(言語としてではなく音として)という次元があると思う。
ひとつの言葉でも、どんなふうに話すか、発音するかで、まったく違う。心地よい言葉にもなるし、聞きたくない言葉にもなる。生理的なことかもしれないけれど、声の持つ魔力があると思う。悪魔が、西岡すみこのような、お笑い芸人の声で、のろいの言葉をかけても凄みがない。
2008年5月18日日曜日
変わることと変わらないこと
父、太郎は、科学法則以外は変わるといった。
確かに、環境は変わる。ついこないだ、サイクロンや大地震が起きて、数万人とも言われる多くの人がなくなった。地形も変形した。急激な変化が起きた。それから、地球温暖化とも呼ばれるじわじわとした変化もある。
人も変わる。生まれて、成長し、衰退し、死んでゆく。人は、その考え方も、生まれた後で、変化する環境の中で生きることで、勉強し、変わってゆく。
父、太郎は、人が社会を作っていて、その社会を構成する人が変わってゆくのだから、人の代わりに合わせて、社会も変わるのが必然であるという。
確かに、科学技術の発達で、いろいろ便利なものができている。夏目漱石の時代には、携帯電話も、パソコンもなかった。逆に、今の時代に、夏目漱石はいない。
しかしながら、父、太郎は、物理の世界に慣性の法則というのがあるように、人の世界でも、慣習の法則があるという。人は、社会がいつも同じで、一定であることを前提として物事を考える癖がでるという。変わるか、変わらないかは、時間的な軸だけであるという。短期では一定でも、長期では変動する。ただ、物事によって、一定と見るか変動と見るかの時間が異なる。そして、人はついつい、人中心に考えてしまうので、変動しているのに変動していない、逆に、変動していないのに変動していると間違えることがしばしばある。世の中がおかしいのは、人の考えが間違っているのだという。
確かに、環境は変わる。ついこないだ、サイクロンや大地震が起きて、数万人とも言われる多くの人がなくなった。地形も変形した。急激な変化が起きた。それから、地球温暖化とも呼ばれるじわじわとした変化もある。
人も変わる。生まれて、成長し、衰退し、死んでゆく。人は、その考え方も、生まれた後で、変化する環境の中で生きることで、勉強し、変わってゆく。
父、太郎は、人が社会を作っていて、その社会を構成する人が変わってゆくのだから、人の代わりに合わせて、社会も変わるのが必然であるという。
確かに、科学技術の発達で、いろいろ便利なものができている。夏目漱石の時代には、携帯電話も、パソコンもなかった。逆に、今の時代に、夏目漱石はいない。
しかしながら、父、太郎は、物理の世界に慣性の法則というのがあるように、人の世界でも、慣習の法則があるという。人は、社会がいつも同じで、一定であることを前提として物事を考える癖がでるという。変わるか、変わらないかは、時間的な軸だけであるという。短期では一定でも、長期では変動する。ただ、物事によって、一定と見るか変動と見るかの時間が異なる。そして、人はついつい、人中心に考えてしまうので、変動しているのに変動していない、逆に、変動していないのに変動していると間違えることがしばしばある。世の中がおかしいのは、人の考えが間違っているのだという。
2008年5月17日土曜日
変わるものと変わらないもの
父、太郎曰く、この世界で変わらないと思われるものは、科学法則のみであるという。もっとも、この科学法則も、人間が知る範囲において変わらないというだけのものであるが、人間が知る部分において、変わらないのだから、まあ、変わらないと考えてよいのだろうと、あいまいな言いようをする。まあ、ともかく、科学法則は変わらないと断言する。
科学法則は、この世界の物質の動きの基本を説明したものであるが、動きの基本が分かったからといって、物質の動きの全ての状況が把握できた分部はない。なぜなら、人間は、ある一定条件における、この世界の全ての状況を把握できはしないからだ、ともいう。だから、この世界のことは、分からない。
さらに、人間は、この世の中を変える力を持ちつつあるといっても、たかが知れているという。人間がこの世界の極ごく一部のほんの少しのごみのような存在であるから、この世を変える力も、ごくごくわずかなほとんど力を及ぼしてもいないほどの力しか行使していないとも言う。
地球と言う小さな池の中の蛙に過ぎない存在である。大海を知らないことに変わりはないと言っている。
科学法則は、この世界の物質の動きの基本を説明したものであるが、動きの基本が分かったからといって、物質の動きの全ての状況が把握できた分部はない。なぜなら、人間は、ある一定条件における、この世界の全ての状況を把握できはしないからだ、ともいう。だから、この世界のことは、分からない。
さらに、人間は、この世の中を変える力を持ちつつあるといっても、たかが知れているという。人間がこの世界の極ごく一部のほんの少しのごみのような存在であるから、この世を変える力も、ごくごくわずかなほとんど力を及ぼしてもいないほどの力しか行使していないとも言う。
地球と言う小さな池の中の蛙に過ぎない存在である。大海を知らないことに変わりはないと言っている。
2008年5月11日日曜日
太郎の読書
父、太郎に、このところ読んだ本で、印象に残った本を聞いた見ました。父が最近に読んだというだけで、最近発売されたという本でもないようです。
バベルの謎 ヤハウィストの冒険 長谷川三千代
妊娠小説 斎藤美奈子
「社会調査」のウソ 科学的な社会調査の方法 谷岡一郎
人体 失敗の進化史 遠藤秀紀
不機嫌な職場 なぜ社員同士で協力できないのか 高橋克徳
父曰く、最近は、小説よりも、この手の本のほうが面白いという。どの本も、人生を豊かにしてくれる要素を持っている。
そしれ、これらの書を俯瞰的に、総合的に、オーバーラップして眺めると、人間の本来もている悪いところ、人体だけではなく、組織も失敗の連続で進化してゆくのだろうし、小説もなにもかも、状況的に変化してゆくところがあるけれど、生き物であっても、組織であっても、小説であっても、本質的に、強く存在のために獲得する機能というものが優れたものが残ってゆくのだということを強く意識させられるという。
バベルの謎 ヤハウィストの冒険 長谷川三千代
妊娠小説 斎藤美奈子
「社会調査」のウソ 科学的な社会調査の方法 谷岡一郎
人体 失敗の進化史 遠藤秀紀
不機嫌な職場 なぜ社員同士で協力できないのか 高橋克徳
父曰く、最近は、小説よりも、この手の本のほうが面白いという。どの本も、人生を豊かにしてくれる要素を持っている。
そしれ、これらの書を俯瞰的に、総合的に、オーバーラップして眺めると、人間の本来もている悪いところ、人体だけではなく、組織も失敗の連続で進化してゆくのだろうし、小説もなにもかも、状況的に変化してゆくところがあるけれど、生き物であっても、組織であっても、小説であっても、本質的に、強く存在のために獲得する機能というものが優れたものが残ってゆくのだということを強く意識させられるという。
2008年5月10日土曜日
「おかめ」と「ひょっとこ」と卑弥呼
「おかめ」と「ひょっとこ」という女と男がある。父、太郎曰く、この二人は神様だよなあ。何で?と尋ねた。
「ひょっとこ」は、「火男」がなまったものであろうという説があるという。「火男」は、火をおこす、つまり、蹈鞴、製鉄などにも関係するらしいが、むかし、火を扱うというのは、特殊だったらしく、王の名に見られるのだという。有名なところでは、海幸彦と山幸彦はそれぞれ、火照命、火遠理命、物部氏の祖は、天火明命、神武天皇は、火火出見命と、とにかく、「火」のつく名前が多く、これらみな、「火男」であるという。
そんなら、「おかめ」は、「亀?」なんて聞いてみた。
そしたら、動物の亀ではなく、瓶をおみする甕のほうだろうなあ、という。「甕」は、みかとも読むし、甕は泥を焼いてつくるだろう? 焼いて作るのだから、火男とも通じるよね。焼くと匂うだろう、だから香りにも通じる。おかめは、御香女、香具夜姫もそうだけど、いかがしこめ(伊香色謎)は、い・香の女だし、山下影姫は、山下の香の女、姪忍鹿姫は、姪忍の香の姫だし、古代の王妃の名前に、香女はたくさんいるんだ。
まあ、そんなわけで、父、太郎の頭の中では、「おかめ」と「ひょっとこ」は、「お香女」と「火男」なんだそうです。
そうそう、魏志倭人伝の卑弥呼と卑弥弓呼は、ともに、火見だろ。火をおこすといえば、蹈鞴、それで、蹈鞴の女といえば、神武天皇の王妃となった、富登多多良伊須須岐姫なんか、その名前も火にちなむ名前で、卑弥呼にぴったりの名前だ。
え! それじゃあ、その蹈鞴なんとかが、卑弥呼なの?
日本書紀には、倭跡跡日百襲姫なんていう名前の姫がいて、卑弥呼候補の姫だけど、「日」は「火」で、やはり、「火」でしょう。倭の火の全ての祖の姫という名前だし、卑弥呼でしょう。
本当でしょうか?
「ひょっとこ」は、「火男」がなまったものであろうという説があるという。「火男」は、火をおこす、つまり、蹈鞴、製鉄などにも関係するらしいが、むかし、火を扱うというのは、特殊だったらしく、王の名に見られるのだという。有名なところでは、海幸彦と山幸彦はそれぞれ、火照命、火遠理命、物部氏の祖は、天火明命、神武天皇は、火火出見命と、とにかく、「火」のつく名前が多く、これらみな、「火男」であるという。
そんなら、「おかめ」は、「亀?」なんて聞いてみた。
そしたら、動物の亀ではなく、瓶をおみする甕のほうだろうなあ、という。「甕」は、みかとも読むし、甕は泥を焼いてつくるだろう? 焼いて作るのだから、火男とも通じるよね。焼くと匂うだろう、だから香りにも通じる。おかめは、御香女、香具夜姫もそうだけど、いかがしこめ(伊香色謎)は、い・香の女だし、山下影姫は、山下の香の女、姪忍鹿姫は、姪忍の香の姫だし、古代の王妃の名前に、香女はたくさんいるんだ。
まあ、そんなわけで、父、太郎の頭の中では、「おかめ」と「ひょっとこ」は、「お香女」と「火男」なんだそうです。
そうそう、魏志倭人伝の卑弥呼と卑弥弓呼は、ともに、火見だろ。火をおこすといえば、蹈鞴、それで、蹈鞴の女といえば、神武天皇の王妃となった、富登多多良伊須須岐姫なんか、その名前も火にちなむ名前で、卑弥呼にぴったりの名前だ。
え! それじゃあ、その蹈鞴なんとかが、卑弥呼なの?
日本書紀には、倭跡跡日百襲姫なんていう名前の姫がいて、卑弥呼候補の姫だけど、「日」は「火」で、やはり、「火」でしょう。倭の火の全ての祖の姫という名前だし、卑弥呼でしょう。
本当でしょうか?
2008年5月6日火曜日
死に急ぐ人々への嘆き
父、太郎は、人の数が多すぎるという。つい百年前には、地球全体でも、1億人だったのが、やがてすぐに100億人にもなるという。地球が養える限界の人口に到達してしまうのだという。日本でも、毎年100万人の人が生まれ、100年間生きて、100万人の人が死ぬという。
父、太郎はさらに続けていう。昔は、母なる大地が人を育てた。やがて家庭が育て、そして国家が育てるようになった。今は、育てる人がいなくなったと嘆く。育てるのは強いものが育てるのだという。大地が強かった時代、父が強かった時代、国が強かった時代が、かつてはあった。けれど、今は混迷しているという。
父、太郎は続けていう。その昔は、神の社会だった。やがて、極一部の特権階級の社会になる。そして大衆の社会になる。大衆化した社会は、平均化し、画一化し、統制され、固定化する。固定化した社会のほうが、安定するから、多数向けの社会なのだ。多数向けだから、固定化するのかもしれないともいう。とにかく、固定化は、先が見えてしまう。先が見えてしまうことほど、面白くないことはないともいう。
父、太郎は、さらにさらに続けていう。でも、100年が目安であるという。過去のどんな国家も100年が一つの区切りで、まったく同じ体制では持たない。固定化の弊害が生まれるからだ。体制が持たないとき、古い時代には、王が取って代わった。他民族の支配におかれることもあった。王制から民主制へと国家の支配体制が変わった時代もあった。父は、今後、民意反映の仕組みを変えなければならない時代が来るだろうという。
父、太郎は、死に急ぐ人を嘆く。これからの100年は、血を流す革命ではなく、静かなる革命の時代になるという。そんな面白い時代に、生きていないでどうするんだと嘆く。今を面白く感じない人のほうが、変革について期待できる可能性を秘めているかもしれないのに、と嘆いている。
父、太郎はさらに続けていう。昔は、母なる大地が人を育てた。やがて家庭が育て、そして国家が育てるようになった。今は、育てる人がいなくなったと嘆く。育てるのは強いものが育てるのだという。大地が強かった時代、父が強かった時代、国が強かった時代が、かつてはあった。けれど、今は混迷しているという。
父、太郎は続けていう。その昔は、神の社会だった。やがて、極一部の特権階級の社会になる。そして大衆の社会になる。大衆化した社会は、平均化し、画一化し、統制され、固定化する。固定化した社会のほうが、安定するから、多数向けの社会なのだ。多数向けだから、固定化するのかもしれないともいう。とにかく、固定化は、先が見えてしまう。先が見えてしまうことほど、面白くないことはないともいう。
父、太郎は、さらにさらに続けていう。でも、100年が目安であるという。過去のどんな国家も100年が一つの区切りで、まったく同じ体制では持たない。固定化の弊害が生まれるからだ。体制が持たないとき、古い時代には、王が取って代わった。他民族の支配におかれることもあった。王制から民主制へと国家の支配体制が変わった時代もあった。父は、今後、民意反映の仕組みを変えなければならない時代が来るだろうという。
父、太郎は、死に急ぐ人を嘆く。これからの100年は、血を流す革命ではなく、静かなる革命の時代になるという。そんな面白い時代に、生きていないでどうするんだと嘆く。今を面白く感じない人のほうが、変革について期待できる可能性を秘めているかもしれないのに、と嘆いている。
2008年5月5日月曜日
消えたペットボトル
先日、祖母がスーパー買い物をしてきた後、お茶をしているときに、ぶつくさと文句を言った。
スーパーで買い物をしたのだが、店員が、買ったはずのペットボトルを入れ忘れているのだという。
祖母は、新型マーチで近くのスーパーに買い物に出かけ、いくつかの買い物をして帰ってきた。途中、どこか別のところによったことはなかった。買い物は、ペットボトル以外にも食料品などが中心で、ポリ袋に一杯、買った。
祖母が行ったスーパーには、美樹も、父と買い物に行くことが何回もある。けれども、これまで一度も、そんなことはなかった。商品は、店員さんが、バーコードで値段を読み取りながら、ポリ袋に入れてゆくので、入れなかったなんて事はまず起きないのだ。
この話を聞いた父は、どこかに消えたと思ったら、「これでしょ」といって、ペットボトルを見つけ出してきていた。
「どこにあったの?」と聞いたら、「車の助手席の下」と、ぼそっと言った。
父、太郎は、探し物の名人である。
スーパーで買い物をしたのだが、店員が、買ったはずのペットボトルを入れ忘れているのだという。
祖母は、新型マーチで近くのスーパーに買い物に出かけ、いくつかの買い物をして帰ってきた。途中、どこか別のところによったことはなかった。買い物は、ペットボトル以外にも食料品などが中心で、ポリ袋に一杯、買った。
祖母が行ったスーパーには、美樹も、父と買い物に行くことが何回もある。けれども、これまで一度も、そんなことはなかった。商品は、店員さんが、バーコードで値段を読み取りながら、ポリ袋に入れてゆくので、入れなかったなんて事はまず起きないのだ。
この話を聞いた父は、どこかに消えたと思ったら、「これでしょ」といって、ペットボトルを見つけ出してきていた。
「どこにあったの?」と聞いたら、「車の助手席の下」と、ぼそっと言った。
父、太郎は、探し物の名人である。
2008年5月4日日曜日
一つの方向性と方向転換における自由度の増加
ある一つの能力を秀でるには、他のことを犠牲にしなければならないというのが、父、太郎の持論である。
たとえば、アメーバは全方向に動けるが、その移動速度は遅い。生物は、360度の全方向に動くということよりも一定の方向のみであっても速く動けることを選択した。そのほうが、速く動けるのだから、優位に立つ。しかも、方向を変えるということと併用すれば、全方向に早く移動するということを獲得したことになる。けれど、一定方向のみに速く移動するという能力を確保したということは、それ以外の方向に移動する速度を捨てたということを意味する。けれども、方向を変えるという別の手段と併用することで、いったん捨てた能力を取り戻したともいうことも出来る。このことは、一定時間という区切りの中で、移動速度内のどこかの位置であれば、そこに存在することが出来ることを意味する。その範囲が広くなればなるほど、自由度が増したと考えることが出来る。すなわち、自由度が増した分、仮想的な空間的な存在量が増えたと言い換えることが出来る。
人間も人生において、幾つもの選択を行い、一つの人生を選択する。いわゆる専門分野を持つ。けれども、その分野において秀でた能力を獲得するということと共に、その能力を別の分野に応用するという方向を変える能力をもつことで、人生という広い空間の自由度を増すことが出来る。専門に秀でるということは、その分野に詳しいということであるが、その分野の本質を理解するということである。この本質を理解するということの能力さえ身に付ければ、方向性を変えるということは、専門でない分野においても、本質的を理解できる能力を得たことになり、その分野の情報さえ与えられれば、思考することが出来るということになる。
これは、父が、常々言っていることである。
たとえば、アメーバは全方向に動けるが、その移動速度は遅い。生物は、360度の全方向に動くということよりも一定の方向のみであっても速く動けることを選択した。そのほうが、速く動けるのだから、優位に立つ。しかも、方向を変えるということと併用すれば、全方向に早く移動するということを獲得したことになる。けれど、一定方向のみに速く移動するという能力を確保したということは、それ以外の方向に移動する速度を捨てたということを意味する。けれども、方向を変えるという別の手段と併用することで、いったん捨てた能力を取り戻したともいうことも出来る。このことは、一定時間という区切りの中で、移動速度内のどこかの位置であれば、そこに存在することが出来ることを意味する。その範囲が広くなればなるほど、自由度が増したと考えることが出来る。すなわち、自由度が増した分、仮想的な空間的な存在量が増えたと言い換えることが出来る。
人間も人生において、幾つもの選択を行い、一つの人生を選択する。いわゆる専門分野を持つ。けれども、その分野において秀でた能力を獲得するということと共に、その能力を別の分野に応用するという方向を変える能力をもつことで、人生という広い空間の自由度を増すことが出来る。専門に秀でるということは、その分野に詳しいということであるが、その分野の本質を理解するということである。この本質を理解するということの能力さえ身に付ければ、方向性を変えるということは、専門でない分野においても、本質的を理解できる能力を得たことになり、その分野の情報さえ与えられれば、思考することが出来るということになる。
これは、父が、常々言っていることである。
2008年5月3日土曜日
攻撃スタイル
山荘のももは、父、太郎と、ときとして戦う。
まあ、小さいながら、善戦していると思う。
父は、ときどき、ももに、ちょっかいを出すのだ。まあ、ようは、暇なのだ。ももも、よく戦うのだが、不利な条件での戦いになる。
まず、体力差がある。50kgも体重に差があるし、身長も、150cmくらいの差だから、圧倒的に不利だ。それにリーチの差も30cmくらいは劣る。
次に、頭にも差がある。父は、タオルを使ったり、噛まれても痛くないように、厚手の靴下や着物をきることで防御しているが、ももは、猫であるから、基本的に裸で、無防備である。
そこで、ももも、頭を使う。まず、自分しか入れないような、ベッドの下とか、カーテンの陰とかに隠れ、そこから、攻撃を仕掛けるのだ。しかも、居場所を変えながらの攻撃である。
それから、得意な技は、ももが隠れてしまったので、攻撃できない父が、ももから遠ざかる、その逃げる相手に、後ろから噛み付くという攻撃である。
正攻法では、不利なももならではの姑息な攻撃ではあるが、いたし方あるまい。
というわけで、二人の戦いは、勝負がつくことはなく、、雨の日などは、二人、いや一人と一匹の攻防が続くのである。
まあ、小さいながら、善戦していると思う。
父は、ときどき、ももに、ちょっかいを出すのだ。まあ、ようは、暇なのだ。ももも、よく戦うのだが、不利な条件での戦いになる。
まず、体力差がある。50kgも体重に差があるし、身長も、150cmくらいの差だから、圧倒的に不利だ。それにリーチの差も30cmくらいは劣る。
次に、頭にも差がある。父は、タオルを使ったり、噛まれても痛くないように、厚手の靴下や着物をきることで防御しているが、ももは、猫であるから、基本的に裸で、無防備である。
そこで、ももも、頭を使う。まず、自分しか入れないような、ベッドの下とか、カーテンの陰とかに隠れ、そこから、攻撃を仕掛けるのだ。しかも、居場所を変えながらの攻撃である。
それから、得意な技は、ももが隠れてしまったので、攻撃できない父が、ももから遠ざかる、その逃げる相手に、後ろから噛み付くという攻撃である。
正攻法では、不利なももならではの姑息な攻撃ではあるが、いたし方あるまい。
というわけで、二人の戦いは、勝負がつくことはなく、、雨の日などは、二人、いや一人と一匹の攻防が続くのである。
2008年4月29日火曜日
ガーベラの花の木とバナナの匂いの木
今年は、玄関先に、初めて花の咲いた木がある。二本あるけど、そのうち、一本の木の日当たりの良い部分だけに、10個くらい、花が咲いた。
父に、「なんていう木?」と聞いたら、「10年くらい前に、植えたものだから、名前は忘れた」という。外国の木で、温かいところに育った木だと記憶しているという。
それじゃあ、命名だ。それで、「ガーベラの木」と名づけた。だって、花がガーベラなんだもの。大きさは、数センチ、色は赤、赤といっても、真っ赤ではなく、ピンクがかっている赤だ。花びらは細長いのが二十枚くらいが輪をなして並んでいて、余り開かないでの三角錐のような形。その中は、30個くらいのひげ上の突起があり、これも赤色だけど先端が黒い。花びらを包むがくは黄色身を帯びた白である。温かい日差しのときのほうが、花びらが開いているように見える。1、2週間くらい咲いていてから花びらが散った。
この今年初めて咲いたガーベラの木のとなりには、バナナの匂いの木と呼んでいる木がある。その名のとおり、花が一斉に咲くころは、バナナの匂いを放つ。一つの花は、それほど匂わないのだけど。この木は、毎年、花を咲かせている。茶色のざらざらした感じの蕾は割れると、クリーム色で、周辺の部分がけが紫色がかった花びらが現れて開く。この木の花は、100個くらいは、一斉に咲く。余り綺麗ではないが、一斉に咲くと、かすかに、バナナのにおいがするんだ。この花の名も、父は、忘れたという。
父曰く、花は名前で鑑賞するのではなく、単純に、姿を愛でるのがよいんだそうな。
父に、「なんていう木?」と聞いたら、「10年くらい前に、植えたものだから、名前は忘れた」という。外国の木で、温かいところに育った木だと記憶しているという。
それじゃあ、命名だ。それで、「ガーベラの木」と名づけた。だって、花がガーベラなんだもの。大きさは、数センチ、色は赤、赤といっても、真っ赤ではなく、ピンクがかっている赤だ。花びらは細長いのが二十枚くらいが輪をなして並んでいて、余り開かないでの三角錐のような形。その中は、30個くらいのひげ上の突起があり、これも赤色だけど先端が黒い。花びらを包むがくは黄色身を帯びた白である。温かい日差しのときのほうが、花びらが開いているように見える。1、2週間くらい咲いていてから花びらが散った。
この今年初めて咲いたガーベラの木のとなりには、バナナの匂いの木と呼んでいる木がある。その名のとおり、花が一斉に咲くころは、バナナの匂いを放つ。一つの花は、それほど匂わないのだけど。この木は、毎年、花を咲かせている。茶色のざらざらした感じの蕾は割れると、クリーム色で、周辺の部分がけが紫色がかった花びらが現れて開く。この木の花は、100個くらいは、一斉に咲く。余り綺麗ではないが、一斉に咲くと、かすかに、バナナのにおいがするんだ。この花の名も、父は、忘れたという。
父曰く、花は名前で鑑賞するのではなく、単純に、姿を愛でるのがよいんだそうな。
2008年4月27日日曜日
本質であれ
太郎の口癖に、物事の本質を見極め本質であろうとすることが大切であるという言葉がある。
石は石であること。猫は猫であること。人間は人間であることが本質なのだという。
石は、自然に石だけど、たとえば、人間が絵を施すことで、それは、人間にとって、石ではなく絵になってしまう。でも、本質は、認識する柄が描いていある石であるということで、石であるということが本質なのだという。
猫は、猫であり、どうあがいても、人間にはならない。猫らしい猫であるほど、立派な猫なのだという。猫らしい猫とは、人間が思う、かわいらしい猫ということではなく、猫と言う存在のなかで、猫が理想とする存在の猫に近い猫が、猫らしい猫なのだという。
そして、人間である。人間が人間らしい人間になることが人間としての人間らしい生き方であると父は言う。
そして、人間らしいことをいうことを自分なりに見つけることが人間らしい着方なのだという。
だって、人間は、何も知らないところから、いろいろなことを経験し、経験したことを認識し、その認識の蓄積をもとに、自分の行動をきめてゆく。この世の中のことを認識することから、自分の行動を決めるという行為そのものが人間らしいことなのだというのだ。
で、何をしたらいいの? と聞くと、それを、自分で考え、決めることが大切なのだという。
ねえ、本当に大切なことを知っていっているの?
石は石であること。猫は猫であること。人間は人間であることが本質なのだという。
石は、自然に石だけど、たとえば、人間が絵を施すことで、それは、人間にとって、石ではなく絵になってしまう。でも、本質は、認識する柄が描いていある石であるということで、石であるということが本質なのだという。
猫は、猫であり、どうあがいても、人間にはならない。猫らしい猫であるほど、立派な猫なのだという。猫らしい猫とは、人間が思う、かわいらしい猫ということではなく、猫と言う存在のなかで、猫が理想とする存在の猫に近い猫が、猫らしい猫なのだという。
そして、人間である。人間が人間らしい人間になることが人間としての人間らしい生き方であると父は言う。
そして、人間らしいことをいうことを自分なりに見つけることが人間らしい着方なのだという。
だって、人間は、何も知らないところから、いろいろなことを経験し、経験したことを認識し、その認識の蓄積をもとに、自分の行動をきめてゆく。この世の中のことを認識することから、自分の行動を決めるという行為そのものが人間らしいことなのだというのだ。
で、何をしたらいいの? と聞くと、それを、自分で考え、決めることが大切なのだという。
ねえ、本当に大切なことを知っていっているの?
2008年4月26日土曜日
「死神の精度」の言葉遊び
最近、山荘では「死神の精度」の言葉遊びというのが、流行っている。というか、父だけが遊んでいる。
たとえば、
「頑張るぞ」というと、「張るのはいいけど、頑て何か知ってるの?」とかいうので、「頑って何?」というと、「鈍い、愚か、悪い」などとけなすので、怒ったら、「『鈍い、愚か、悪い』は、頑張るの『頑』と言う字の意味だ」と切り捨てられた。ちぇ、ちょっと前までは、「ジャンバラヤ」などと駄洒落を言っていただけなんだろうが!
あるいは、
「挙句の果ての成れの果て」とか言うと、「いきなり、挙句じゃ終わっちゃうから発句もいってよ」などというので、「ほっく?」とか言うと、なんのことだか、れんかがどうのこうのとか芭蕉がどうのこうのとかいいだす始末。
はたまた、
「死神の精度」の言葉遊びを続けているので、「あくまでも、続ける気か?」とかいうと、「悪魔じゃないもん」などと言い返す。まあ、天使じゃないだろう。
ま、このごろ、そんなことで、一人で悦にいっている父であった。
たとえば、
「頑張るぞ」というと、「張るのはいいけど、頑て何か知ってるの?」とかいうので、「頑って何?」というと、「鈍い、愚か、悪い」などとけなすので、怒ったら、「『鈍い、愚か、悪い』は、頑張るの『頑』と言う字の意味だ」と切り捨てられた。ちぇ、ちょっと前までは、「ジャンバラヤ」などと駄洒落を言っていただけなんだろうが!
あるいは、
「挙句の果ての成れの果て」とか言うと、「いきなり、挙句じゃ終わっちゃうから発句もいってよ」などというので、「ほっく?」とか言うと、なんのことだか、れんかがどうのこうのとか芭蕉がどうのこうのとかいいだす始末。
はたまた、
「死神の精度」の言葉遊びを続けているので、「あくまでも、続ける気か?」とかいうと、「悪魔じゃないもん」などと言い返す。まあ、天使じゃないだろう。
ま、このごろ、そんなことで、一人で悦にいっている父であった。
2008年4月20日日曜日
山荘の孤独な住人
父、太郎には友達がいない。
まず、電話がかかってくることがない。家の電話にも、携帯にもかかっては来ない。すくなくとも、かかってきたことを見たことがない。携帯なんか持っている意味がないと思うけれど、受けるのではなく、かけるには必要らしい。最近は、電話ボックスが少なくなったから。電話も来ないし、手紙も来ない。ましてや、友達が尋ねてきたこともない。なんと、一度も見たことがないのだ。
「友達いないの?」とたずねてみると、「いないよ」と答える。
太郎曰く、孤独に強い体質なんだそうだ。友達もいない上、テレビもみないし、ラジオも、たまに車に乗ったときしか聞かないようだ。少々、インターネットで情報収集することがあるようだけれど、それも、使うのは、休みの日くらいだ。そんなわけで、世間にも疎いのではないかと思うのだけれでも、案外そうでもない。太郎曰く、若いときに勉強しておけば、世の中はそんなに変わるものではないから、大丈夫なんだらしい。まあ、一応、生活できているから、あながち、あたっていないわけではないのかもしれない。
太郎は、流行には無頓着、収集しているものも、これといってない。質素で簡単で単純でめんどくさくないことがいいとおもっているらしい。だから、きるものも寝巻きと普段着とお出かけ用の3パターンだ。もっとも、お出かけ用は、季節によってや用事によってやはり3パターンくらいある。そのパターンの姿は、ここ数年、変わっていない。太郎曰く、モノを大切にすることは良いことだという。
ずっとこんな生活に、最近は感化されつつある。美樹も、都会の人の多さ、人混みがいやになってきている。
まず、電話がかかってくることがない。家の電話にも、携帯にもかかっては来ない。すくなくとも、かかってきたことを見たことがない。携帯なんか持っている意味がないと思うけれど、受けるのではなく、かけるには必要らしい。最近は、電話ボックスが少なくなったから。電話も来ないし、手紙も来ない。ましてや、友達が尋ねてきたこともない。なんと、一度も見たことがないのだ。
「友達いないの?」とたずねてみると、「いないよ」と答える。
太郎曰く、孤独に強い体質なんだそうだ。友達もいない上、テレビもみないし、ラジオも、たまに車に乗ったときしか聞かないようだ。少々、インターネットで情報収集することがあるようだけれど、それも、使うのは、休みの日くらいだ。そんなわけで、世間にも疎いのではないかと思うのだけれでも、案外そうでもない。太郎曰く、若いときに勉強しておけば、世の中はそんなに変わるものではないから、大丈夫なんだらしい。まあ、一応、生活できているから、あながち、あたっていないわけではないのかもしれない。
太郎は、流行には無頓着、収集しているものも、これといってない。質素で簡単で単純でめんどくさくないことがいいとおもっているらしい。だから、きるものも寝巻きと普段着とお出かけ用の3パターンだ。もっとも、お出かけ用は、季節によってや用事によってやはり3パターンくらいある。そのパターンの姿は、ここ数年、変わっていない。太郎曰く、モノを大切にすることは良いことだという。
ずっとこんな生活に、最近は感化されつつある。美樹も、都会の人の多さ、人混みがいやになってきている。
2008年4月19日土曜日
四季が岳太郎の奇妙な書
今日は、父、太郎の著作を紹介しよう。といっても、実は、一冊も読んでいないので、父から聞いた断片的な情報をまとめたものに過ぎないのだけれど・・・。父は、既に、13冊もの本を書いている。
四季が岳太郎の著作一覧
天津日継制による古代倭国統一場理論
和歌極秘伝による万葉言霊歌遊戯理論
歴史ミステリーのみる万葉言霊歌解析
隠和歌詠みによる源氏物語の真相解析
古代倭国統一場理論 卑弥呼の時空
隠俳諧詠みによる奥の細道の真髄解析
言葉遊びで綴る倭歌二千年の歩み
言葉遊びの歌詠み処方箋奥の細道
漱石、龍之介、賢治、乱歩、そして謎解き
我が愛しのアイリーン
星の少年の詩的哲学
僕と鼠と羊の物語
名無し探偵の憂鬱な日々
こんなタイトル、見るだけでも、難しそうだし、ぱらぱらとめくると、やはり難しそうで、読むのを止めた。でも、それでは紹介にならないし、紹介すれば、ちょっとは売れるかもしれないので、紹介しよう。
古代倭国統一場理論は、父曰く、画期的な解釈だという。古代の神々、つまり、王家の記録、それは、神話の形での伝承なのだけれど、大きな間違いがあるんだって。その間違いは、本来、一つの王家のことなのに、登場する神の名前や王の名前がまったく別の名前で書いてしまっているために、別の神話に見えるだけに過ぎないということだそうなんだ。なんでも、天照大神の王家のことと、神武天皇(はじめての天皇だって)の王家とは、同じなんだって。実は、同じ事を、海幸彦の一族が記録したものと、山幸彦の一族が記録したものなのに、間違えているんだって。信じられる? 父曰く、昔の偉い人は、幾つもの名前で呼ばれていたし、その名前も、伝承のうちに変化してしまったんだって。
万葉言霊歌理論は、和歌の中に潜む別の言葉は、神の言葉であると昔の人は信じたということが基本だって。たしかに、ある言葉の中に、たまたま、別の言葉を見つけることってあるよね。でも、それが神のなせる業と、昔の人は信じていたんだって。二とが意識せずに発した言葉は神の声であるらしい。言霊の正体だという。
それが、やがて、人が意識的に、和歌の技法として作り上げたことで、言葉遊びになっていったんだって。言葉に二重三重の意味を持たせるということで、言葉に重みを持たせることが高度な言葉の使い方で、源氏物語の短歌や奥の細道の俳句には、ふんだんにその技法が使われているということらしい。
詩や歌や句に、いろいろな遊びを施す技術は、古代から延々と続いていて、やがて、物語としても使用されることになるという。父は、その表とは異なる隠れた部分こそが、物語の重要な部分であることがあるのだという。しかも、その重要な部分がいまだに語られないままのことが多いのだという。解釈は一つではないかもしれないが、一つの解釈を施してみたものが、「倭歌二千年の歩み」や、「そして謎解き」であるらしい。
物語をどのように読み解くか、人の成長や生き方という観点から、物語を見直したのが、「名無し探偵」と「星の少年」であるのだという。さらに、物語の解釈に遊びの要素を加えて、新たな物語を作ってみたものが、「アイリーン」と「僕と鼠と羊」なのらしい。
太郎曰く、歴史や古典や和歌や文学やミステリーと対象としているものはいろいろだけれど、考え方はそんなに違わない。ということらしい。
今日は、難しくて、よく分からないことを書きすぎたので、疲れた・・・。
四季が岳太郎の著作一覧
天津日継制による古代倭国統一場理論
和歌極秘伝による万葉言霊歌遊戯理論
歴史ミステリーのみる万葉言霊歌解析
隠和歌詠みによる源氏物語の真相解析
古代倭国統一場理論 卑弥呼の時空
隠俳諧詠みによる奥の細道の真髄解析
言葉遊びで綴る倭歌二千年の歩み
言葉遊びの歌詠み処方箋奥の細道
漱石、龍之介、賢治、乱歩、そして謎解き
我が愛しのアイリーン
星の少年の詩的哲学
僕と鼠と羊の物語
名無し探偵の憂鬱な日々
こんなタイトル、見るだけでも、難しそうだし、ぱらぱらとめくると、やはり難しそうで、読むのを止めた。でも、それでは紹介にならないし、紹介すれば、ちょっとは売れるかもしれないので、紹介しよう。
古代倭国統一場理論は、父曰く、画期的な解釈だという。古代の神々、つまり、王家の記録、それは、神話の形での伝承なのだけれど、大きな間違いがあるんだって。その間違いは、本来、一つの王家のことなのに、登場する神の名前や王の名前がまったく別の名前で書いてしまっているために、別の神話に見えるだけに過ぎないということだそうなんだ。なんでも、天照大神の王家のことと、神武天皇(はじめての天皇だって)の王家とは、同じなんだって。実は、同じ事を、海幸彦の一族が記録したものと、山幸彦の一族が記録したものなのに、間違えているんだって。信じられる? 父曰く、昔の偉い人は、幾つもの名前で呼ばれていたし、その名前も、伝承のうちに変化してしまったんだって。
万葉言霊歌理論は、和歌の中に潜む別の言葉は、神の言葉であると昔の人は信じたということが基本だって。たしかに、ある言葉の中に、たまたま、別の言葉を見つけることってあるよね。でも、それが神のなせる業と、昔の人は信じていたんだって。二とが意識せずに発した言葉は神の声であるらしい。言霊の正体だという。
それが、やがて、人が意識的に、和歌の技法として作り上げたことで、言葉遊びになっていったんだって。言葉に二重三重の意味を持たせるということで、言葉に重みを持たせることが高度な言葉の使い方で、源氏物語の短歌や奥の細道の俳句には、ふんだんにその技法が使われているということらしい。
詩や歌や句に、いろいろな遊びを施す技術は、古代から延々と続いていて、やがて、物語としても使用されることになるという。父は、その表とは異なる隠れた部分こそが、物語の重要な部分であることがあるのだという。しかも、その重要な部分がいまだに語られないままのことが多いのだという。解釈は一つではないかもしれないが、一つの解釈を施してみたものが、「倭歌二千年の歩み」や、「そして謎解き」であるらしい。
物語をどのように読み解くか、人の成長や生き方という観点から、物語を見直したのが、「名無し探偵」と「星の少年」であるのだという。さらに、物語の解釈に遊びの要素を加えて、新たな物語を作ってみたものが、「アイリーン」と「僕と鼠と羊」なのらしい。
太郎曰く、歴史や古典や和歌や文学やミステリーと対象としているものはいろいろだけれど、考え方はそんなに違わない。ということらしい。
今日は、難しくて、よく分からないことを書きすぎたので、疲れた・・・。
2008年4月13日日曜日
白髪鬼
父、太郎は、髪が白である。数年前は、髪を染めていたが、数ヶ月に一度程度、染めるだけだったので、白、黒、茶の三色であった。けれども、此処のところ、染めもせず、ほとんど白髪となっている。白くなっているので、人ごみの中で、探すのには重宝する。
本人曰く、背は、170cm2、体重は、63kgである。数年前は、一時期、80kg近くあったらしいが、ダイエットして、半年で、20kgくらい減量に成功した。食べる量を減らして、独自の体操をして、体重を毎日、グラフにつけ、減っていく推移を楽しんでいたら、標準体重に落ち着いたらしい。
本人曰く、会社に入社したときの背広が着れるようになったぞ、と威張っていた。
まあ、一度決めたなら、とことん、本人が満足するまで、実行するという性格の持ち主である。だから、博士などという称号をもっていたりするのだ。博士といっても、医者ではなく、理学博士というものらしい。
父は、数年前までは、某大手化学メーカーの研究所で働いていてたようだが、此処のところ、東京への勤務に変わったようで、遠くなったぶん、平日は、朝早くに出かけている。名刺も、二つ持っていた。問いただしてみると、二つの会社に籍があるなどという、そんなことってあるのか?
休日は、あやしい本を、執筆をしたりするが、執筆は、あくまでも趣味の領域らしい。本人曰く、趣味だから、自由気ままに、好きなことを書くことができる、という。でも、まあ、二つ目の仕事にカウントしてしまおう。
しかも、たまにではあるが、それ以外にも、「仕事」といって、なにやら、出かけたりする。地元の会社から、なにやら、届け物が届いたり、電話や、FAXがあったりする。このへんは、あやしい! どうも、三つ目の仕事があるようなのだが、休日に何の仕事をしているのだ?
しかも、最近、本人曰く、今度、秋には、大学で、講師をすることとなった、という。四つ目の仕事のようだが、ますます、あやしい! げっ、いったい、何を教えるというのだ?
父、太郎は、幾つもの顔があるようで、なにかと、得体の知れないところがあるのである。
本人曰く、背は、170cm2、体重は、63kgである。数年前は、一時期、80kg近くあったらしいが、ダイエットして、半年で、20kgくらい減量に成功した。食べる量を減らして、独自の体操をして、体重を毎日、グラフにつけ、減っていく推移を楽しんでいたら、標準体重に落ち着いたらしい。
本人曰く、会社に入社したときの背広が着れるようになったぞ、と威張っていた。
まあ、一度決めたなら、とことん、本人が満足するまで、実行するという性格の持ち主である。だから、博士などという称号をもっていたりするのだ。博士といっても、医者ではなく、理学博士というものらしい。
父は、数年前までは、某大手化学メーカーの研究所で働いていてたようだが、此処のところ、東京への勤務に変わったようで、遠くなったぶん、平日は、朝早くに出かけている。名刺も、二つ持っていた。問いただしてみると、二つの会社に籍があるなどという、そんなことってあるのか?
休日は、あやしい本を、執筆をしたりするが、執筆は、あくまでも趣味の領域らしい。本人曰く、趣味だから、自由気ままに、好きなことを書くことができる、という。でも、まあ、二つ目の仕事にカウントしてしまおう。
しかも、たまにではあるが、それ以外にも、「仕事」といって、なにやら、出かけたりする。地元の会社から、なにやら、届け物が届いたり、電話や、FAXがあったりする。このへんは、あやしい! どうも、三つ目の仕事があるようなのだが、休日に何の仕事をしているのだ?
しかも、最近、本人曰く、今度、秋には、大学で、講師をすることとなった、という。四つ目の仕事のようだが、ますます、あやしい! げっ、いったい、何を教えるというのだ?
父、太郎は、幾つもの顔があるようで、なにかと、得体の知れないところがあるのである。
2008年4月12日土曜日
桜に鶯が似合う
このところ、1週間ほど、鶯の鳴き声が毎日のように、それも、一日中鳴いている。温かくなってきたから、鳥も鳴きやすいだろう。
鶯は、「ほー、ほけきょ」のあの鳥である。よく聞いてみると、鳴き方が、微妙に違う。「ほー、ほけきょ」の「ほー」のところが、微妙にビブラートのかかり方が異なる。「けきょ」だけ鳴くときもあるし、それに、なんと形容したらいいかわからないけれど、「ほけきょ」のない別の鳴き方もある。たぶん、鳴き方にも違いがあるのだろうな。
たしか、昔の人は、「梅に鶯」といったと思う。菅原道真の歌にも知られるように、花といえば、梅の時代があったのだそうだ。(父、太郎が言っていた)でも、梅の時期には鶯の声を聞かなかった。四季が岳山荘にも梅もあるけれど、梅が咲くのは、三月の上旬のころで、まだ寒い。だから、梅の咲いたのは分かっているけれど、それほどまじまじとは見なかった。それに比べ、桜は、温かくなってから咲く。先週が桜の見ごろだったけど、これからは、桜も、八重桜が咲く。
四季が岳山荘では、桜の花の色と、鳴く鶯の声がハーモニーする。鶯は、梅ではなく桜に似合うと思う。
桜咲き、鶯鳴きて、酒旨し(父、太郎作)
鶯は、「ほー、ほけきょ」のあの鳥である。よく聞いてみると、鳴き方が、微妙に違う。「ほー、ほけきょ」の「ほー」のところが、微妙にビブラートのかかり方が異なる。「けきょ」だけ鳴くときもあるし、それに、なんと形容したらいいかわからないけれど、「ほけきょ」のない別の鳴き方もある。たぶん、鳴き方にも違いがあるのだろうな。
たしか、昔の人は、「梅に鶯」といったと思う。菅原道真の歌にも知られるように、花といえば、梅の時代があったのだそうだ。(父、太郎が言っていた)でも、梅の時期には鶯の声を聞かなかった。四季が岳山荘にも梅もあるけれど、梅が咲くのは、三月の上旬のころで、まだ寒い。だから、梅の咲いたのは分かっているけれど、それほどまじまじとは見なかった。それに比べ、桜は、温かくなってから咲く。先週が桜の見ごろだったけど、これからは、桜も、八重桜が咲く。
四季が岳山荘では、桜の花の色と、鳴く鶯の声がハーモニーする。鶯は、梅ではなく桜に似合うと思う。
桜咲き、鶯鳴きて、酒旨し(父、太郎作)
2008年4月6日日曜日
もも七変化
1 「家政婦は見た」となるもも
父、太郎が外出するとき、見送りに行くのだが、玄関の隅っこにあるコート掛けのの影から、そっと、太郎を見ている。
2 「飾り窓の猫」となるもも
温かいときには、窓とカーテンと隙間に入り、置物状態となって身じろぎもせずに、外を眺めている。
3 「アリと対決した猪木」となるもも
父、太郎がももにちょっかいを出すと、ももは、仰向けになり、父がちょっかいを出す手に攻撃を仕掛ける。その姿を見て、父が、形容した言葉だ。何のことだ?
4 「ほふく前進する」もも
父、太郎と遊んでいることがるのだけれども、飽きてくると逃げようとする。そのときには、胴長の体を低くして、ゆっくりと父がなでている状態のまま、匍匐前進するかのように前進を始める。
5 「ケンシロウ」になるもも
父、太郎とじゃれていることがあるけれど、時として、戦いとなる。そのときには、行事良い体勢から、すばやく前足をのばし引っかく。ときとして、「ヴぁお」と規制を発するときもある。
6 「猪突する」もも
若いとき、ももは、誰かが来たり、出かけるときに、玄関が開くと、やってきては、扉の隙間から一気に外に駆け抜けた。いのししと化すのである。
7 眠り猫
でも、ももは猫である。昼間でも寝ているときがもっとも多い。
父、太郎が外出するとき、見送りに行くのだが、玄関の隅っこにあるコート掛けのの影から、そっと、太郎を見ている。
2 「飾り窓の猫」となるもも
温かいときには、窓とカーテンと隙間に入り、置物状態となって身じろぎもせずに、外を眺めている。
3 「アリと対決した猪木」となるもも
父、太郎がももにちょっかいを出すと、ももは、仰向けになり、父がちょっかいを出す手に攻撃を仕掛ける。その姿を見て、父が、形容した言葉だ。何のことだ?
4 「ほふく前進する」もも
父、太郎と遊んでいることがるのだけれども、飽きてくると逃げようとする。そのときには、胴長の体を低くして、ゆっくりと父がなでている状態のまま、匍匐前進するかのように前進を始める。
5 「ケンシロウ」になるもも
父、太郎とじゃれていることがあるけれど、時として、戦いとなる。そのときには、行事良い体勢から、すばやく前足をのばし引っかく。ときとして、「ヴぁお」と規制を発するときもある。
6 「猪突する」もも
若いとき、ももは、誰かが来たり、出かけるときに、玄関が開くと、やってきては、扉の隙間から一気に外に駆け抜けた。いのししと化すのである。
7 眠り猫
でも、ももは猫である。昼間でも寝ているときがもっとも多い。
2008年4月5日土曜日
新聞はどこに隠す?
ある休日の夕食時のこと、父、太郎が新聞はどこか? と聞いた。
祖母、布希が、郵便受けから持ってきたから、いつものところにあるよ、といった。いつものところとは、居間のベッドの上なのだけれども、わたしが見たけれども、なかった。太郎は、昨日までの新聞を入れる古新聞入れの紙袋の一番上を見てみたが、それは、昨日の新聞だった。
それなら、玄関の靴箱の上に置いたままだったかなあと、祖母がいうので、今度は、父が見に行った。戻ってきた父はなかったといった。
それなら、わたしのへやかなあ、と祖母がいいみたが、なかった。それから、周辺を探してみたけれど、新聞はなかった。
今日の新聞の紛失事件の発生である。
そこから、事件は迷宮入りの様相を呈するのかと思いきや、父が、わかったといい、行動に移った。
古新聞入れの昨日の新聞を取り上げ、次に、広告の紙を取り出し、さらに、その下の新聞を取り出した。
その新聞は、今日の新聞であったのである。
以上が、今日の新聞紛失事件の顛末である。
祖母、布希が、郵便受けから持ってきたから、いつものところにあるよ、といった。いつものところとは、居間のベッドの上なのだけれども、わたしが見たけれども、なかった。太郎は、昨日までの新聞を入れる古新聞入れの紙袋の一番上を見てみたが、それは、昨日の新聞だった。
それなら、玄関の靴箱の上に置いたままだったかなあと、祖母がいうので、今度は、父が見に行った。戻ってきた父はなかったといった。
それなら、わたしのへやかなあ、と祖母がいいみたが、なかった。それから、周辺を探してみたけれど、新聞はなかった。
今日の新聞の紛失事件の発生である。
そこから、事件は迷宮入りの様相を呈するのかと思いきや、父が、わかったといい、行動に移った。
古新聞入れの昨日の新聞を取り上げ、次に、広告の紙を取り出し、さらに、その下の新聞を取り出した。
その新聞は、今日の新聞であったのである。
以上が、今日の新聞紛失事件の顛末である。
2008年3月30日日曜日
隠れ猫
山荘の人気者は、「もも」である。猫である。ロシアンブルーである。小心者である。だから、たいてい、見えにくいところに寝ている。たとえば、カーテンの裏の日当たりの良いところ、たとえば、保護色となるような布地の上、たとえば、棚の上部である。季節によっても、気候によっても、一日の時間帯によっても、居所が変わる。居心地の良さが変わるのだろう。
もう一度言うが、「もも」は、小心者である。だから、ちょっとした音にも驚き、逃げ隠れる。小さめの音には、逃げなくとも身構える。かすかな音には、身構えなくとも、音の方向を凝視する。だけれども、「もも」は、ポリ袋が好きである。ときたま、すりよって、じゃれるように、すりすりとポリ袋の音を立てる。
「もも」は、淋しがり屋でもある。山荘の人が来ると、おきてきて、わざとばたばたと走ったりする。人の視界に入り、存在を強調する。それから、近寄ってきて、接触する。
でも、「もも」は小心者である。山荘に来る人には、隠れる。隠れて、じっとしている。もっとも、この山荘自体も世の中から隠れているようなものなのだけれども、「もも」は、さらに隠れているのだ。
もう一度言うが、「もも」は、小心者である。だから、ちょっとした音にも驚き、逃げ隠れる。小さめの音には、逃げなくとも身構える。かすかな音には、身構えなくとも、音の方向を凝視する。だけれども、「もも」は、ポリ袋が好きである。ときたま、すりよって、じゃれるように、すりすりとポリ袋の音を立てる。
「もも」は、淋しがり屋でもある。山荘の人が来ると、おきてきて、わざとばたばたと走ったりする。人の視界に入り、存在を強調する。それから、近寄ってきて、接触する。
でも、「もも」は小心者である。山荘に来る人には、隠れる。隠れて、じっとしている。もっとも、この山荘自体も世の中から隠れているようなものなのだけれども、「もも」は、さらに隠れているのだ。
2008年3月29日土曜日
舞い散る桜の花びらの数だけ神様がいたらいいのに
桜の季節となりました。山荘にも何本か桜があります。一番最初に咲くのが、濃い桃色の桜、次が、薄い桃色、それから、やはり桃色の八重桜、変り種だけど、秋にも咲く桜もあります。
今日は、わずかな風がそよぎ、桜の花びらが、わずかに流されて、散っています。
今の季節は、水仙、チューリップ、さくらんぼ、が終わり、辛夷、花桃、椿、沈丁花、三椏、小手毬、木瓜、アカシア、ムスカリ、クリスマスローズなどなど、満開です。
この季節は、鶯の囀りで、朝、起こされます。日中には、雲雀も囀り、名前も知らない鳥が遊ぶ姿を見ることも出来ます。
今日は、適度に、日も差し、お花見日和です。
今見ごろの桜の木は、前から此処にあって、ふた抱えくらいの太さがある、この山荘の守り神のような木です。ちょうど見ごろ、やがては、絶え間なく、風に花びらが舞い踊ります。
舞い散る桜の花びらの数だけ神様がいたらいいのに
今日は、わずかな風がそよぎ、桜の花びらが、わずかに流されて、散っています。
今の季節は、水仙、チューリップ、さくらんぼ、が終わり、辛夷、花桃、椿、沈丁花、三椏、小手毬、木瓜、アカシア、ムスカリ、クリスマスローズなどなど、満開です。
この季節は、鶯の囀りで、朝、起こされます。日中には、雲雀も囀り、名前も知らない鳥が遊ぶ姿を見ることも出来ます。
今日は、適度に、日も差し、お花見日和です。
今見ごろの桜の木は、前から此処にあって、ふた抱えくらいの太さがある、この山荘の守り神のような木です。ちょうど見ごろ、やがては、絶え間なく、風に花びらが舞い踊ります。
舞い散る桜の花びらの数だけ神様がいたらいいのに
2008年3月23日日曜日
雨男に雪男に蜘蛛男に蠅男に蛇女
父、太郎も、それでも、最近は、あまり引きこもらなくなった。
スランプなのかもしれないので、「スランプなんでしょう」と尋ねたら、「何か、惹きつけられるぐっとくる面白い謎、謎がないんだよね。謎が」なんて、三つも形容詞を付けた謎を強調して嘆いていた。どうも、最近、面白い題材が見当たらないようだ。「最近、面白いものない? 面白い本とか出来事とか、知らないかなあ」なんて、お問い合わせをよく受ける。
けど、めんどくさいので、いつも、「ない」の一言で済ませている。
いつぞやは、「落書でも、苦しくなってきたなあ」なんて、訳の分からないことをいっていた。何を言っているかわからなかったが、ちょっと考えて、落書きは楽書きということらしいと思った。親父ギャグだな。
父、太郎は、言葉に興味がある、たぶん、あると思う。近頃は、「死神の精度」にでてきた、「醜いと見えにくい」、「雨男と雪男の違い」なんかを面白がって話してくれた。そんなに面白いとも思えないが、とにかく、面白がって話す。 だから、そんなことが、面白いんだろうな。
「そうだな、付け加えれば、蜘蛛男なんてのもありだろう?」ていったら、「なるほど、それなら、蠅男なんてのもいたな」なんていう。
「そんなら、蛇女だっているぞ!」でも、蠅男って誰だ?
そうだ! 本は、まだ、読んでないけど、でも、さきに映画を見ちゃったもんね。死神の精度!
こないだは、卒業式シーズンだからか、巷で、いかにも卒業式にゆくのにいそいそと歩いていた羽織袴の女の人を、ぼーっと見ながら、「「かいさんのつきのつぎのつきはかいこうのつき」なんて、早口言葉にどうだろう?」なんて、まったく見当はずれのことをぼそっと言った。
いったい何を考えているんだ??
まったく、意味不明なので、「どういうこと?」と尋ねたら、おもむろに、肩に掛けていたバッグから、鉛筆とメモ用紙を取り出し、「解散の月の次の月は邂逅の月」と書いて、「3月の次は4月と言うこと。分かるよね」だって。
書いてまで説明しなくてもいいんだよね。四の五の言うな。いや、書くな。
スランプなのかもしれないので、「スランプなんでしょう」と尋ねたら、「何か、惹きつけられるぐっとくる面白い謎、謎がないんだよね。謎が」なんて、三つも形容詞を付けた謎を強調して嘆いていた。どうも、最近、面白い題材が見当たらないようだ。「最近、面白いものない? 面白い本とか出来事とか、知らないかなあ」なんて、お問い合わせをよく受ける。
けど、めんどくさいので、いつも、「ない」の一言で済ませている。
いつぞやは、「落書でも、苦しくなってきたなあ」なんて、訳の分からないことをいっていた。何を言っているかわからなかったが、ちょっと考えて、落書きは楽書きということらしいと思った。親父ギャグだな。
父、太郎は、言葉に興味がある、たぶん、あると思う。近頃は、「死神の精度」にでてきた、「醜いと見えにくい」、「雨男と雪男の違い」なんかを面白がって話してくれた。そんなに面白いとも思えないが、とにかく、面白がって話す。 だから、そんなことが、面白いんだろうな。
「そうだな、付け加えれば、蜘蛛男なんてのもありだろう?」ていったら、「なるほど、それなら、蠅男なんてのもいたな」なんていう。
「そんなら、蛇女だっているぞ!」でも、蠅男って誰だ?
そうだ! 本は、まだ、読んでないけど、でも、さきに映画を見ちゃったもんね。死神の精度!
こないだは、卒業式シーズンだからか、巷で、いかにも卒業式にゆくのにいそいそと歩いていた羽織袴の女の人を、ぼーっと見ながら、「「かいさんのつきのつぎのつきはかいこうのつき」なんて、早口言葉にどうだろう?」なんて、まったく見当はずれのことをぼそっと言った。
いったい何を考えているんだ??
まったく、意味不明なので、「どういうこと?」と尋ねたら、おもむろに、肩に掛けていたバッグから、鉛筆とメモ用紙を取り出し、「解散の月の次の月は邂逅の月」と書いて、「3月の次は4月と言うこと。分かるよね」だって。
書いてまで説明しなくてもいいんだよね。四の五の言うな。いや、書くな。
2008年3月22日土曜日
一葉の写真から
春は暖かいけれど、花粉があるから、夏のほうが好き。冬は寒いし、秋のほうが月が綺麗だから好き。
春夏秋冬といえば、四季、四季といえば、四季が岳太郎。先日の、父の誕生日には、有名な探偵作家たちの写真をプレゼントした。そしたら、とたんに、いきなり、引きこもりになった。引きこもりになるときは、かならず、、新しい作品を書くときだ。古い本を引っ張り出して読んでいたり、あげた写真を眺めたり、ネットで検索したりしていた。データを書斎に持ち込み、それに何やら一覧表のようなものをこしらえていたりしていたなあ。たぶん、今度の作品は、本格推理に関するものであると思う。だって、本格ものといわれる人々の写真だったのだし、パソコンを覗いてみたら、検索のキーワードも、それらの作家の名前だったのだから。
太郎は、引きこもるときは、ジャージにティーシャツというラフな格好のままで、何本ものペットボトルコーヒーと、何箱ものタバコを用意しておいて、食事以外は出てこない。時々、知らない音楽が流れてきたりする。それで、終日、キーボードをたたきながら、文章を作っているようだ。
きっと、また、訳の分からない小難しい理屈を考えているんだろうな。でも、あの写真から、どんなものを書き始めたのだろう? こないだ、どんなの書いているの? と聞いてみたら、本格推理とはなんだと思う? なんて、逆に問いかけてきた。犯人当ての謎解き小説でしょう、と答えたら、そうか、なんていって、また、引きこもってしまった。
よくもまあ、あんなに売れない本ばかり書けるかと感心する。そういうと、売れる本が良い本と言うわけではない。良い本とは、これまでにない新しいことを感じさせてくれる本である。しかも、新しいこととは、これまでにはないことなのだから、いきおい、専門的な領域の話になるし、大衆に売れるということとは、相容れない要素を持つものなのだよ、なんて、のたまっていた。
まあ、素人にも分かりやすく書くことも大切だろうに。まだまだだね。
どうでもいいけど、訳の分からない理屈を振り回して面白くもない本ばかり書くために、そんなに引きこもっていると、また、太るぞ!
春夏秋冬といえば、四季、四季といえば、四季が岳太郎。先日の、父の誕生日には、有名な探偵作家たちの写真をプレゼントした。そしたら、とたんに、いきなり、引きこもりになった。引きこもりになるときは、かならず、、新しい作品を書くときだ。古い本を引っ張り出して読んでいたり、あげた写真を眺めたり、ネットで検索したりしていた。データを書斎に持ち込み、それに何やら一覧表のようなものをこしらえていたりしていたなあ。たぶん、今度の作品は、本格推理に関するものであると思う。だって、本格ものといわれる人々の写真だったのだし、パソコンを覗いてみたら、検索のキーワードも、それらの作家の名前だったのだから。
太郎は、引きこもるときは、ジャージにティーシャツというラフな格好のままで、何本ものペットボトルコーヒーと、何箱ものタバコを用意しておいて、食事以外は出てこない。時々、知らない音楽が流れてきたりする。それで、終日、キーボードをたたきながら、文章を作っているようだ。
きっと、また、訳の分からない小難しい理屈を考えているんだろうな。でも、あの写真から、どんなものを書き始めたのだろう? こないだ、どんなの書いているの? と聞いてみたら、本格推理とはなんだと思う? なんて、逆に問いかけてきた。犯人当ての謎解き小説でしょう、と答えたら、そうか、なんていって、また、引きこもってしまった。
よくもまあ、あんなに売れない本ばかり書けるかと感心する。そういうと、売れる本が良い本と言うわけではない。良い本とは、これまでにない新しいことを感じさせてくれる本である。しかも、新しいこととは、これまでにはないことなのだから、いきおい、専門的な領域の話になるし、大衆に売れるということとは、相容れない要素を持つものなのだよ、なんて、のたまっていた。
まあ、素人にも分かりやすく書くことも大切だろうに。まだまだだね。
どうでもいいけど、訳の分からない理屈を振り回して面白くもない本ばかり書くために、そんなに引きこもっていると、また、太るぞ!
2008年3月20日木曜日
捨てる神あれば、拾う神あり
この季節は、変わり目の時です。ようやく温かくなり始めてきたけれど、父の奇妙なことといったら、相変わらずです。
こないだは、ドライブしてて、話が私の進学の話になって、「とりあえず、入れたからいいじゃん」っていったら。
父、太郎が、「捨てる神あれば、拾う神ありだね」なんていう。
「いろんな神様がいるんだ?」
そしたら、「貧乏神に疫病神、それに死神もいるからね」だって! 失礼しちゃうわ。
死神といえば、「デス・ノート」の死神も、それから、「死神の精度」の死神も奇妙だ。「デス・ノート」の死神は、林檎が好物だった。林檎といえば、アダムとイブの林檎だよね。イブは林檎を食べて、自分の羞恥心に目覚め、その挙句、アダムと一緒に楽園から追放されたんだったよね。唆したのは、にょろにょろした蛇だ。「デス・ノート」の死神が林檎が好物と言うのは、意味深だよね。
それから、「死神の精度」、「精度って何」と、父、太郎に聞いたら、「誤差、真のものとそれを似せたものや似たものとの差の程度のこと」なんて、かえって、分からなくなるようなことをいう。そんなことはおいといて、こちらの死神、言葉が変だ。醜いを見えにくいと勘違いしたり、雨男と雪男を比較したり、年貢制度が今もあるかと疑問に思ったりしてた。死神の言語感覚は、勘違いによっているように思うけれど、勘違いで生き死にが決められたらたまんないよねえ。
死神のイメージは、黒装束で鎌を片手に怖いイメージだったけれど、今は、死が怖いものではなくなったのかなあ。医療が進歩して、人の死に様も病院でしか見かけないし、人の死も形式的な儀式でしかイメージできないし、生と死が曖昧になってきているんだろうな。
でも、死神は、死神が、生死を判定するのに、一応、その人物の生きたいという気持ちを聞いて、判定を下しているのだと思う。けれども、そんな判定なんて、何の意味がある? この本を読んだら、死神とは無関係に、生き残るものは生き残るし、死ぬものは死ぬような気がしてきた。死神の力なんて、怖いものじゃない感じだな。
でも、こんど、「死神の精度」が映画になったようだから、見てみようかな。
こないだは、ドライブしてて、話が私の進学の話になって、「とりあえず、入れたからいいじゃん」っていったら。
父、太郎が、「捨てる神あれば、拾う神ありだね」なんていう。
「いろんな神様がいるんだ?」
そしたら、「貧乏神に疫病神、それに死神もいるからね」だって! 失礼しちゃうわ。
死神といえば、「デス・ノート」の死神も、それから、「死神の精度」の死神も奇妙だ。「デス・ノート」の死神は、林檎が好物だった。林檎といえば、アダムとイブの林檎だよね。イブは林檎を食べて、自分の羞恥心に目覚め、その挙句、アダムと一緒に楽園から追放されたんだったよね。唆したのは、にょろにょろした蛇だ。「デス・ノート」の死神が林檎が好物と言うのは、意味深だよね。
それから、「死神の精度」、「精度って何」と、父、太郎に聞いたら、「誤差、真のものとそれを似せたものや似たものとの差の程度のこと」なんて、かえって、分からなくなるようなことをいう。そんなことはおいといて、こちらの死神、言葉が変だ。醜いを見えにくいと勘違いしたり、雨男と雪男を比較したり、年貢制度が今もあるかと疑問に思ったりしてた。死神の言語感覚は、勘違いによっているように思うけれど、勘違いで生き死にが決められたらたまんないよねえ。
死神のイメージは、黒装束で鎌を片手に怖いイメージだったけれど、今は、死が怖いものではなくなったのかなあ。医療が進歩して、人の死に様も病院でしか見かけないし、人の死も形式的な儀式でしかイメージできないし、生と死が曖昧になってきているんだろうな。
でも、死神は、死神が、生死を判定するのに、一応、その人物の生きたいという気持ちを聞いて、判定を下しているのだと思う。けれども、そんな判定なんて、何の意味がある? この本を読んだら、死神とは無関係に、生き残るものは生き残るし、死ぬものは死ぬような気がしてきた。死神の力なんて、怖いものじゃない感じだな。
でも、こんど、「死神の精度」が映画になったようだから、見てみようかな。
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