この季節は、変わり目の時です。ようやく温かくなり始めてきたけれど、父の奇妙なことといったら、相変わらずです。
こないだは、ドライブしてて、話が私の進学の話になって、「とりあえず、入れたからいいじゃん」っていったら。
父、太郎が、「捨てる神あれば、拾う神ありだね」なんていう。
「いろんな神様がいるんだ?」
そしたら、「貧乏神に疫病神、それに死神もいるからね」だって! 失礼しちゃうわ。
死神といえば、「デス・ノート」の死神も、それから、「死神の精度」の死神も奇妙だ。「デス・ノート」の死神は、林檎が好物だった。林檎といえば、アダムとイブの林檎だよね。イブは林檎を食べて、自分の羞恥心に目覚め、その挙句、アダムと一緒に楽園から追放されたんだったよね。唆したのは、にょろにょろした蛇だ。「デス・ノート」の死神が林檎が好物と言うのは、意味深だよね。
それから、「死神の精度」、「精度って何」と、父、太郎に聞いたら、「誤差、真のものとそれを似せたものや似たものとの差の程度のこと」なんて、かえって、分からなくなるようなことをいう。そんなことはおいといて、こちらの死神、言葉が変だ。醜いを見えにくいと勘違いしたり、雨男と雪男を比較したり、年貢制度が今もあるかと疑問に思ったりしてた。死神の言語感覚は、勘違いによっているように思うけれど、勘違いで生き死にが決められたらたまんないよねえ。
死神のイメージは、黒装束で鎌を片手に怖いイメージだったけれど、今は、死が怖いものではなくなったのかなあ。医療が進歩して、人の死に様も病院でしか見かけないし、人の死も形式的な儀式でしかイメージできないし、生と死が曖昧になってきているんだろうな。
でも、死神は、死神が、生死を判定するのに、一応、その人物の生きたいという気持ちを聞いて、判定を下しているのだと思う。けれども、そんな判定なんて、何の意味がある? この本を読んだら、死神とは無関係に、生き残るものは生き残るし、死ぬものは死ぬような気がしてきた。死神の力なんて、怖いものじゃない感じだな。
でも、こんど、「死神の精度」が映画になったようだから、見てみようかな。
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