父、四季が岳太郎、がいう。
若い人には、その存在を導いてくれる師の存在があるかないで、その人生が大きく左右されるだろう。
人は、自分の事を他人よりも、良い存在と思う傾向がある。それは、特に、自分が得意だとか、好きだとか思っている部分に関して、人は、自分が優れていると思いたがる強い傾向がある。
この思いがあるからこそ、その先を目指すという意志・行為にもなり、新しいものを目指そうとする原動力にもなる。けれども、他社との比較ということでは、自分自身を優れていると思うことで、他者を貶めて評価することにもなる。つまり、不当に他者を低く見下ろすのだ。
正当性の根拠を求めるならば、その道の大家となった存在であれば、他者も、過去の実績から、その大家の発言に一目置かざるを得ない。けれども、根拠なき、若いものの発言は、たとえ正当なものであっても、軽んじられて扱われる傾向がある。
社会は、すでに、出来上がっている。若者はその出来上がっている社会に、新たに入り込む新参者である。新参者は、既に社会の一員にいるものの比べ、いつでもハンディキャップを負っている。新参者であるということは、その社会の状況について知らないだろうという他者の先入観があるからである。
子供が、大人になるまでの間に、すべきことは、自分自身の身近に、尊敬できる人生の師を見つけることである。そして、生きるうえでの指針を絶えず、考えさせてくれる存在という師を身近な存在として得ておくことである。
何をしたら良いのか分からないとき、正の方向のヒントをくれるはずである。
父、四季が岳太郎は、夏の暑い日に、こんなことを言っていた。
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