父、四季が岳太郎曰く、真と偽は、あいまいであるという。
人間が、状況を認識するが、状況の中で生きている人間は、その状況を感覚を通じて情報を得て、脳内の処理を行い、記憶する。
その処理を行うことで、すでに、真実は歪められる。
だから、人の数だけの状況認識があるが、その状況認識には、それぞれの状況認識する主体の偏りが生じるという。
だから、真実が微妙にずれ、時には、大幅にずれ、そのずれた認識で生きている人間は、時には、真実を見間違いながら生きているという。
でも、どの人間も、状況認識し生きているのだが、自分の認識を基本にいきているという根本が変わらないので、自分の認識が正しいという前提で生きている。
真実は、状況の中にあり、その中に、普遍的な真実はある。
ところが、人間が状況認識することで、状況はゆがみ、ゆがんだ状況認識が人の中に生まれる。それでも、状況認識のゆがみが小さなものは本質的なものは、たぶん真実を認識していると表現して問題ないような偏りもにも無視できる小さな偏りを受けただけと考えてよい。
でも、それが、単に状況認識のみであるばあい、その状況認識を正しく認識しているか、それとも、自分にとって有利な状況認識に歪めているかは、たぶんに、自分にとって有利な状況認識をしているケースがあるという。
自分にとって有利に考える傾向は、生物が本来、自分をより強い生存体に仕上げてゆく傾向があるから、致し方ないのだという。
けれども、時として、自分が中心に世の中が動いているという幻想を持つ人がいて、その幻想を持つ人が、ある程度、状況を支配的に動かす力も持っている場合、その周辺状況は、とても危険な状況になることがあるという。
端的な例は、『ヒトラー』であるという。
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