2008年11月3日月曜日

信用してはいけないものには、実体と言葉の乖離がある

 経済で、実体経済と金融経済の乖離が大きくなりすぎると破綻する。
 父、太郎がいうことであるが、何も、これは経済のみならず、実質と資金の関係が乖離すると、よくならなくなるという。
 たとえば、お役人が、国民、都道府県民、市町村民のためになることといいながら、その実、お役所のためになることを優先させているのである。だから、お役所はつぶれないが、民間の生活は苦しくなるのである。
 とたえば、弁護士は、法治国家であることを強調する。裁判の有用性を説く。当事者同士で物事が解決したら、お金にならないからである。
 たとえば、医者は、心配の目を全て払拭するという理由で、必要以上の医療行為をしたがる。でも、必要以上の医療行為をすれば、医者が儲かるというのが事実である。
 たとえば、詐欺は、あなたのためといいながら、詐欺する人の自分がお金を巻き上げるために、甘言を施すのだ。だまされる人はお金を巻き上げられることになる。
 儲けることがそれほどに大切なことか? 嘘をついてまで、儲けることの正当性があるのか?
 殺人者には、正当性はない。どんな理由も、人殺しの正当な裏づけにはならない。
 人が何を言おうが、言っていることを信じてよいかどうかは、疑わしい。多くの場合。言っていることではなく、その人が行っている行為とその結果から判断すべきである。言っていることと行っていることの乖離が激しいことがよくあるのだ。人はむしろ、実を取るのに、言葉を利用する。
 なんと言おうと、実体がよくなっていないのなら、実態がよくなることを目指しているのではなく、別の目的で動いていると考えたほうが良い。
 利益優先であったり、自己保身であったり、敵対関係であったり、世の中を良くするということ以上に人が優先させることには事欠かないのだ。
 しかも、この世の中には、自分の周辺のそんな些細なことのほうを優先する人が多いのだ。
 父、太郎は、実体と言葉に乖離あることには注意せよという。
 

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