ある一つの能力を秀でるには、他のことを犠牲にしなければならないというのが、父、太郎の持論である。
たとえば、アメーバは全方向に動けるが、その移動速度は遅い。生物は、360度の全方向に動くということよりも一定の方向のみであっても速く動けることを選択した。そのほうが、速く動けるのだから、優位に立つ。しかも、方向を変えるということと併用すれば、全方向に早く移動するということを獲得したことになる。けれど、一定方向のみに速く移動するという能力を確保したということは、それ以外の方向に移動する速度を捨てたということを意味する。けれども、方向を変えるという別の手段と併用することで、いったん捨てた能力を取り戻したともいうことも出来る。このことは、一定時間という区切りの中で、移動速度内のどこかの位置であれば、そこに存在することが出来ることを意味する。その範囲が広くなればなるほど、自由度が増したと考えることが出来る。すなわち、自由度が増した分、仮想的な空間的な存在量が増えたと言い換えることが出来る。
人間も人生において、幾つもの選択を行い、一つの人生を選択する。いわゆる専門分野を持つ。けれども、その分野において秀でた能力を獲得するということと共に、その能力を別の分野に応用するという方向を変える能力をもつことで、人生という広い空間の自由度を増すことが出来る。専門に秀でるということは、その分野に詳しいということであるが、その分野の本質を理解するということである。この本質を理解するということの能力さえ身に付ければ、方向性を変えるということは、専門でない分野においても、本質的を理解できる能力を得たことになり、その分野の情報さえ与えられれば、思考することが出来るということになる。
これは、父が、常々言っていることである。
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