2008年10月26日日曜日

誘導する力と平衡の崩壊

 世の中のバランスが崩れた。
 金融と経済が崩れている。
 父、太郎に言わせると、「歴史的な是正が進んでいると」という。
 その昔、ナイル、チグリス-ユーフラテス、インダス、黄河という四大文明があった。ナイルは地中海文明からヨーロッパ・アメリカへ展開した、黄河文明は、中国が衰退したため日本という代理を立てた。
 枠組みとしては、欧・米・日という三大文化圏にて形成しているが、四大文明の二つの後継者しか含まれていない。
 いま、文明の後継は、日本から本来の中国に中心を戻しつつある。
 チグリス-ユーフラテスは、オイルを武器にして、中規模ではあるが、中東文化圏を形成している。地勢的には、旧ソビエト連邦の南部の地域、中央アジアとともに、一つの文化圏を形成する可能性がある。その前に、インダス文明の後継であるインドが台頭してきている。
 いまは、歴史的に見て、枠組みの変換点にきているというのが、父の意見だ。
 すなわち、欧・米・日という三大拠点からの発信による世界支配の構造から、さらに、中東とインド、それに新たに南米地域やオーストラリアを含めた多数の広域拠点地域が緩やかに結びつく形態への変化の転換点にあるのだという。
 欧州(スペインであったり、オランダであったり、イギリスであったりしたが)、米国、ロシアというきわめて少数の巨大国家の支配体制からの変換点であるという。
 その第一章が、10年ほど前からの中東・東南アジアの台頭、BRISCの発展などに代表される地域拠点国家の台頭の時代であったという。この時代は、どんな手段を使っても、自分自身が勝ち、儲けることを求めた時代であった。
 第二章が、これからの10年での、米・欧金型融経済システムの崩壊、いまは、(この段階であるという)。この段階では、勝つことは、儲けないことであるという。儲けるのではなく、儲けさせることを与えることで、その還元を受け、勝つ時代であるという。あくまでも、経済的に優位に立つかどうかが判断基準ではあるが、相互協力する関係の相手を儲けさせることで恩恵にあずかるということだそうだ。
 父、太郎にいわせると、やがて、そのあとに、第三章が、くるという。その第三章とは、儲けるとかいう金銭基本の経済性からは切り離された基準、存在を受容できるか出来ないかという関係性で成り立つ社会になるという。儲かるかどうかではなく、お互いの関係を認め合うことが出来るもの同士が、お互いの為に関係性を保つという時代になるらしい。

2008年10月25日土曜日

3億円でも2億円でも

 むかし、3億円という事件があったらしい。警官に変装した犯人が、銀行の現金輸送車を奪って、3億円を盗んだというものだ。もう、30年以上むかしに起こった事件だったと思う。
 こないだは、宝くじに当たったおばあさんが、殺された。あたった金額は2億円だった。そのとたんに殺された。
 3億円でも、2億円でも、人が地道に働いたら、一生で、ようやく、稼げる金額くらいだろうか。
 ニュースで流れていたとき、父、太郎は、「一生分なら、一生かけて手に入れるのがよろしい。不相応なことは、結局のところ、もてあますだけである。それだけならよいが、不相応なことがきっかけで、破滅する事だってあるということだね」なんてことをいっていた。
 

2008年10月19日日曜日

するべきことをしない罪

 父、太郎曰く、この社会で生きているのならば、必ず、この社会を構成している人としての役割を負うという。役割を負うことで、この社会の中で生きる権利があるのだという。
 昔は、この社会の規律に反逆する、抵抗する人が罪を犯している人と言う概念であった。いわゆる犯罪者である。
 最近は、与えられた役割に対して、その役割を負わないこと自体が、悪いこと、あるいは犯罪であるという。
 その典型的なことは、役人が、社会に対して貢献することの役割を負うべきなのに、自己の存在を構成する人の利益を求めることで、社会に対して、むしろ不利益をもたらしていることがあげられるという。それは不正流用などの犯罪のレベルではなく、問題がある、または問題が生じるとわかっていながら、無駄な仕事を生むことや、対策を講じないことも含まれる。
 そして、もっとも問題なことは、その悪いことは、決定的に悪いにもかかわらず、その当事者が、裁かれず、また、結果に関しての反省もせず、むしろ、悪いのは社会の仕組みなどの不可抗力的な言い訳がまかり通り、結果的に、不利益を生じたことのみが残ってしまうという、そのことであるという。
 父、太郎曰く、日本の社会がだめな体質は、このさらに、もっと、だめな体質を蔓延させるという。
 その結果、正しいことが正しく行われない社会になる。このことがもっとも恐ろしいことである。

2008年10月18日土曜日

兆候があらわれたら

 父は、四季が岳太郎である。
 父の話すことは、よくあたることがある。
 不況になることは、昨年、予言していた。父に言わせると、すでに、いくつかの兆候は見えていたという。
 米国の拝金主義に近い金融政策の資本主義経済が破綻するということは数年前に話していた。もっとも、当時は、米国の政治・金融の独裁的やり方は間違っているといっていた父が何を言いいたいのかわからなかったが。
 出版業界の不況に関しても、ずいぶん前からいっていたが、これは予測と言うよりは、すでに、出版しても本が得れないという状況が現れていた後のことだったと思う。ただ、この流れは変わらずにすっと続くということについても話していた。太郎は、情報の電子化という流れの当然の方向性なのだという。
 父に言わせると、世の中のことを興味深く見ていれば、必然的にわかることで、本質とその表現形態の相関関係をふまえて状況をみていて、兆候が現れたら、すばやく察知するだけのことであるという。
 

2008年10月13日月曜日

人が多すぎる

 100年位前は、地球の人口は数億人だった。それが、100年で10倍である。人の行為が、100年前と同じであったとしても、計算上、10倍の行為がなされることになる。人のエネルギー消費量が、100年前の10倍になっていたら、100倍のエネルギーが消費される計算になる。
 見方を変えれば、100年前の100倍のスピードで、量的な消費がなされていることになる。
 一方、質的に、100倍の進歩があるのだろうか。膨張する人の数に、社会の質が追いついているのだろうか。
 逆に人一人が依存する地球環境はという観点からは、人が占める割合は、1/100になっているのだから、人の重要性も、1/100になっているという見方も出来る。
 だから、数だけのことを考えれば、本当のことを言えば、人一人が死んでも、人類にとってはどうということはないのだ。ただ、他人との関係性があるから、もしくは、人類という集団の中で重要な機能を負わされている位置にいる、ということでもなければ、取るに足りない存在なのだ。
 それは、人の心臓や脳にあたるのか、髪の毛や爪に該当するかで、役割が違うことと似てはいないだろうか。

2008年10月12日日曜日

ゆきあたりばったりで歪んだ世界

 本当の本質が見えなくて、でも、状況的な対処のみすると、状況はかえって歪む。
 でも、歪むことを承知で、歪むことをする人がいる。
 世の中が歪むか歪まないかなど、どうでもいいと思っているのだ。
 本質を見ることが出来なければ歪む。
 自分だけが大切とか思えば歪む。
 やがて、心の歪んだ人になる。
 心の歪んだ人は、歪んだ行為をすることを平然とする。
 そして、その人の周辺が歪む。
 歪んだ人は歪んだ人達の中で生きてゆく。
 そして、世の中を歪ませてゆく。
 やがては、歪んだ人の世界は、歪みきった世界となる。
 それは、たぶん、生きるに値しないところまで、歪む。
 そんなこともわからず、歪んだ存在は、今日も徐々に歪んでゆく。

2008年10月11日土曜日

ごたごたしている

 協力関係が築けずに、不協和音が鳴り響く世界の軋み。
 この世界には、物がある。厳然としてある。
 一方、人々の気持ちがある。これも、もやっとしているが、確かに有る。
 この二つをつなぐものは、お金ではない。お金でつなごうとしても、それはただ、変換するための道具に過ぎない。
 何を手にいれ、何を手放すのか?
 生活、生き方。
 価値観こそが、変換基準である。
 お金がなくとも、生活が成り立てば、それは存在し続ける。
 お金があっても、生活が成り立たなければ、それは存在し続け得ない。
 生活が、成り立つかどうかは、お金の量ではない。お金の流れである。生活は活動なのだから。少ないお金でも、流れ、循環が起こっていれば、そこに調和があり、生活が成り立つ。お金があっても、循環がなければ、それはただの紙くずだ。
 循環すること、それは、自分ひとりではなく、ある規模での関係が成り立っているということを示す。
 循環する関係性を成り立たせることが、重要なことだと思う。

2008年10月5日日曜日

ガリレオΦ

 うちの父、太郎は、化学者であるという現在形ではなく、あったと過去形にするほうがよさそうであるが、湯川先生は、天才物理学者である。うちの父とは、物理と化学の違いがあるが、天才か天才でないかの違いもあるのだろう。もっとも、本人は、物理と化学の違いのみの違いしかないと想っているのではないかと疑いたくなる節もある。
 てなわけで、昨日、映画のガリレオに合わせてだろう、ガリレオΦがTVで放映された。大学生の時の事件が回想されつつ、助教授時代の事件が扱われている。
 ちなみに、この回想の事件のほうでは、あの天才数学者となりうる石神も、後姿のみ、ちらっと登場したりする。
 それにしても、湯川先生の犯罪の仮説の実証実験は、とおても、お金がかかるだろうし、どう考えても、そんな短期間で、必要な器具を用意できないだろうと思えるのが、あっというまに準備され、実験されてしまうのが、とても奇妙である。いったいどれほどの人間が協力したら、成立するか、誰か試算してもらいたいものである。
 それなのに、そんなすごい実験を可能とするのだから、ひょうっとして、湯川先生は、大富豪の一族だったりするのだろうか。
 

2008年10月4日土曜日

いらないものがおおすぎる

 地球は、ごみごみしている。
 日本もごみごみしている。
 山麓もごみごみしている。
 この山荘とて、ごみごみしている。
 自分にとって、いらないもの、不要なものというのがある、というか、いらないものの方が多い。でも、それは、他の人にとって、必要なものあるのかもしれない。
 けれども、誰にとっても必要のないもの、不要なものというものもあるんじゃないだろうか。
 父、太郎に言わせると、この世の中の物質に不要なものはない。不要だとすれば、それは、人間が不要な形態に、形を変えてしまったものだからだろう、という。
 たしかに、ごみと呼ばれるものは、本来、人間が何かを作ることで生じた不要物であったり、作ったものの使えなくなったものだったり、もっと良いものが生まれてきたために放置されてしまったりしたものなのだ。
 ならば、人間が、活動し、物を作り出すことは、必然的にごみを有むということになる。ならば、いらないものもおおくなるというものだ。