日本の夏は蒸し暑い。
一昨年あたりは、9月になっても、台風の被害が続いていたように思う。
昨年は、とにかく暑いという印象が強かった。
今年は、とにかくスコール、局地的な大雨が強烈だ。
来年は、どんなことになるのだろう?
夏の甲子園も終わり、オリンピックも終わり、明日から9月。
また、日本全体が、普通の生活に戻ってゆく。
でも、ニュースでは、日本は、物価高、景気の減速やらで、雲行きが怪しいようだ。
オリンピックは民族の祭典なんていyことがあるらしいが、そのオリンピックの開かれた中国で、中国とチベットの問題、グルジアとロシアの民族問題、タイの政権、新たな冷戦構造が生まれるのではないかなどなど、世界に火種は尽きない。
なんだか、誰もが、思うように行かずに、いらだって、怒っているように思える。
2008年8月31日日曜日
2008年8月30日土曜日
雷鳴とどろく豪雨
いやあ、昨晩は、神様が怒ったような土砂降り、雷鳴となりました。
絶えることなく、雷が鳴り続け、とても怖かった。
そんな大雨の中、11時過ぎに、父、太郎は、ずぶ濡れになり、帰ってきた。
髪も、服も、靴も、ずぶ濡れで、水の中を泳いできたのかと思うほどだ。
それにしても、人間など、自然の脅威には、なすすべがない。
土砂崩れ、停電、浸水、洪水・・・・・
人間活動は麻痺する。
そいでも、今日は、晴れ間が見える。
庭の緑は、昨日のまま。
自然の脅威、は自、然の対応力が一番強い。
そして、地球は、今日も廻っていく。
絶えることなく、雷が鳴り続け、とても怖かった。
そんな大雨の中、11時過ぎに、父、太郎は、ずぶ濡れになり、帰ってきた。
髪も、服も、靴も、ずぶ濡れで、水の中を泳いできたのかと思うほどだ。
それにしても、人間など、自然の脅威には、なすすべがない。
土砂崩れ、停電、浸水、洪水・・・・・
人間活動は麻痺する。
そいでも、今日は、晴れ間が見える。
庭の緑は、昨日のまま。
自然の脅威、は自、然の対応力が一番強い。
そして、地球は、今日も廻っていく。
2008年8月24日日曜日
容疑者Xの献身
探偵ガリレオの最新作が文庫本になったので読みました。
湯川先生は、相変わらず、理系の先生なのだなあと思いましたが、これまでの短編集とはちょっと、違った感じがします。
湯川先生よりも印象に残るのは、石神先生です。たぶん、美里さんは、石神先生のことが好きなんだなと思います。石神先生は、どうも、見てくれは、かっこよくなさそうだけれど、良い先生のように思います。それは、授業風景にちょっと、感じられます。
でも、とても、孤独な先生で、友達が一人もいないようです。石上先生の実力を理解しているのは、湯川先生のみのようですし、その湯川先生にしても、この事件があったから、石上先生のもとを訪れたものの、友達と言うべき存在ではありません。
そういえば、湯川先生も、草薙刑事とも、友達と言うような感じでもないし、天才というものは、一人も友達がいないというものなのかしら。
そういえば、父、四季が岳太郎も、友達がいないという点に関してのみは、湯川先生や石神先生と同じではあるのだが・・・・・
湯川先生は、相変わらず、理系の先生なのだなあと思いましたが、これまでの短編集とはちょっと、違った感じがします。
湯川先生よりも印象に残るのは、石神先生です。たぶん、美里さんは、石神先生のことが好きなんだなと思います。石神先生は、どうも、見てくれは、かっこよくなさそうだけれど、良い先生のように思います。それは、授業風景にちょっと、感じられます。
でも、とても、孤独な先生で、友達が一人もいないようです。石上先生の実力を理解しているのは、湯川先生のみのようですし、その湯川先生にしても、この事件があったから、石上先生のもとを訪れたものの、友達と言うべき存在ではありません。
そういえば、湯川先生も、草薙刑事とも、友達と言うような感じでもないし、天才というものは、一人も友達がいないというものなのかしら。
そういえば、父、四季が岳太郎も、友達がいないという点に関してのみは、湯川先生や石神先生と同じではあるのだが・・・・・
2008年8月23日土曜日
複雑系
父、四季が岳太郎、曰く、世の中は、複雑系であるという。
いろんなことが相互に関係しあって、成り立っているということを意味しているという。
原因と結果の関連は、個別の存在の間に関係性が生じることでおきている。その関係性が成り立つ前の状態から、関係性が成り立った後の状態に変化するとき、変化を引き起こした主たる要因を原因といい、変化した状態を結果と呼ぶが、一部分だけを切り出して考えると、確かに、原因と結果と言うように見えるかもしれないが、それは、一部分の事柄の変化に着目したときに、原因と結果があるように思えるが、状態変化ということでは、ある一つのことで変化しているのではなくい。多くの相互作用があり、その相互作用に強さ、弱さの強弱がある。その強さと弱さで、影響の度合いがことなり、影響が強い要因を原因と考える。問題は、人間が認識した強い作用と思うことが本当に強い作用を及ぼしているという現実を正しく理解できているかどうかで、この点に関しての人間の認識力に関しては、はなはだ、心もとない認識しか出来ない人がとても多いといわざるを得ない状況であろう。
いろんなことが相互に関係しあって、成り立っているということを意味しているという。
原因と結果の関連は、個別の存在の間に関係性が生じることでおきている。その関係性が成り立つ前の状態から、関係性が成り立った後の状態に変化するとき、変化を引き起こした主たる要因を原因といい、変化した状態を結果と呼ぶが、一部分だけを切り出して考えると、確かに、原因と結果と言うように見えるかもしれないが、それは、一部分の事柄の変化に着目したときに、原因と結果があるように思えるが、状態変化ということでは、ある一つのことで変化しているのではなくい。多くの相互作用があり、その相互作用に強さ、弱さの強弱がある。その強さと弱さで、影響の度合いがことなり、影響が強い要因を原因と考える。問題は、人間が認識した強い作用と思うことが本当に強い作用を及ぼしているという現実を正しく理解できているかどうかで、この点に関しての人間の認識力に関しては、はなはだ、心もとない認識しか出来ない人がとても多いといわざるを得ない状況であろう。
2008年8月17日日曜日
真と偽
父、四季が岳太郎曰く、真と偽は、あいまいであるという。
人間が、状況を認識するが、状況の中で生きている人間は、その状況を感覚を通じて情報を得て、脳内の処理を行い、記憶する。
その処理を行うことで、すでに、真実は歪められる。
だから、人の数だけの状況認識があるが、その状況認識には、それぞれの状況認識する主体の偏りが生じるという。
だから、真実が微妙にずれ、時には、大幅にずれ、そのずれた認識で生きている人間は、時には、真実を見間違いながら生きているという。
でも、どの人間も、状況認識し生きているのだが、自分の認識を基本にいきているという根本が変わらないので、自分の認識が正しいという前提で生きている。
真実は、状況の中にあり、その中に、普遍的な真実はある。
ところが、人間が状況認識することで、状況はゆがみ、ゆがんだ状況認識が人の中に生まれる。それでも、状況認識のゆがみが小さなものは本質的なものは、たぶん真実を認識していると表現して問題ないような偏りもにも無視できる小さな偏りを受けただけと考えてよい。
でも、それが、単に状況認識のみであるばあい、その状況認識を正しく認識しているか、それとも、自分にとって有利な状況認識に歪めているかは、たぶんに、自分にとって有利な状況認識をしているケースがあるという。
自分にとって有利に考える傾向は、生物が本来、自分をより強い生存体に仕上げてゆく傾向があるから、致し方ないのだという。
けれども、時として、自分が中心に世の中が動いているという幻想を持つ人がいて、その幻想を持つ人が、ある程度、状況を支配的に動かす力も持っている場合、その周辺状況は、とても危険な状況になることがあるという。
端的な例は、『ヒトラー』であるという。
人間が、状況を認識するが、状況の中で生きている人間は、その状況を感覚を通じて情報を得て、脳内の処理を行い、記憶する。
その処理を行うことで、すでに、真実は歪められる。
だから、人の数だけの状況認識があるが、その状況認識には、それぞれの状況認識する主体の偏りが生じるという。
だから、真実が微妙にずれ、時には、大幅にずれ、そのずれた認識で生きている人間は、時には、真実を見間違いながら生きているという。
でも、どの人間も、状況認識し生きているのだが、自分の認識を基本にいきているという根本が変わらないので、自分の認識が正しいという前提で生きている。
真実は、状況の中にあり、その中に、普遍的な真実はある。
ところが、人間が状況認識することで、状況はゆがみ、ゆがんだ状況認識が人の中に生まれる。それでも、状況認識のゆがみが小さなものは本質的なものは、たぶん真実を認識していると表現して問題ないような偏りもにも無視できる小さな偏りを受けただけと考えてよい。
でも、それが、単に状況認識のみであるばあい、その状況認識を正しく認識しているか、それとも、自分にとって有利な状況認識に歪めているかは、たぶんに、自分にとって有利な状況認識をしているケースがあるという。
自分にとって有利に考える傾向は、生物が本来、自分をより強い生存体に仕上げてゆく傾向があるから、致し方ないのだという。
けれども、時として、自分が中心に世の中が動いているという幻想を持つ人がいて、その幻想を持つ人が、ある程度、状況を支配的に動かす力も持っている場合、その周辺状況は、とても危険な状況になることがあるという。
端的な例は、『ヒトラー』であるという。
2008年8月16日土曜日
妖精遊戯から雨木の国
有川浩さんのレインツリーの国を読んだ。
図書館戦争にも名前だけだけど登場する本だ。
伸は、理屈っぽいけど、好感の持てる男の子である。とにかく、人生に前向きである。
ひとみは、それに比べると、あたまはよいのだけれど、世の中に対して臆病というか、消極的な人生を、歩んでいる。
SPで、主人公が、男の後を、三歩下がってついてくるような女がいないかなあと自分の理想をのべ、笹本に、そんなおんないねえよ!と一言の元に否定されたことがあったが、物語のななかであれば、近い存在の女の子がいたりする。
なんか、まどろっこしく感じるところがあるけれど、それはそれで、二人のそれぞれの時間の流れがあって、その流れ方が、微妙にずれているのだけれども、二人とも、どちらかというと、時間の流れ方がゆっくりとした流れ方のように思う。
ゆっくりと流れる時間もいいもんだなあ。
図書館戦争にも名前だけだけど登場する本だ。
伸は、理屈っぽいけど、好感の持てる男の子である。とにかく、人生に前向きである。
ひとみは、それに比べると、あたまはよいのだけれど、世の中に対して臆病というか、消極的な人生を、歩んでいる。
SPで、主人公が、男の後を、三歩下がってついてくるような女がいないかなあと自分の理想をのべ、笹本に、そんなおんないねえよ!と一言の元に否定されたことがあったが、物語のななかであれば、近い存在の女の子がいたりする。
なんか、まどろっこしく感じるところがあるけれど、それはそれで、二人のそれぞれの時間の流れがあって、その流れ方が、微妙にずれているのだけれども、二人とも、どちらかというと、時間の流れ方がゆっくりとした流れ方のように思う。
ゆっくりと流れる時間もいいもんだなあ。
2008年8月10日日曜日
生きるために必要なもの
父、四季が岳太郎に言わせると、生きるために必要なものは、生きる意志であるという。
生きる意志は、生きたいと思う心であるという。
生きたいと思う心は、娘であるという。
この世の中は、人間中心に作り変えられつつあり、人間は、世の中を理解することで、この世の中を変えようとしている。
ただ、その作り変えの速度は遅く、太郎自身が、この世の中に生きているうちには完成しないだろうという。つまり、太郎の時代の活動はあくまでも、途中、次の世代への橋渡しの存在であるという、もっとも、ずっと、長い間、次の世代への橋渡しの時代が、まだまだ、長く続くだろうと考えているという。
本当に、理想的な世の中になるには、まだまだ、長い年月がかかるだろうという。
ただ、今よりも良い世の中になる可能性はある。それが、未来にあるとしたら、現在、出来るところを、現在で、もっとも良いと思われることをしておくだけであるという。
もっとも良いと思われることをしておくこと。それが生きる指針であるという。
それは、未来に繋がる存在があるということ。だから、生きるのであるという。
生きる意志は、生きたいと思う心であるという。
生きたいと思う心は、娘であるという。
この世の中は、人間中心に作り変えられつつあり、人間は、世の中を理解することで、この世の中を変えようとしている。
ただ、その作り変えの速度は遅く、太郎自身が、この世の中に生きているうちには完成しないだろうという。つまり、太郎の時代の活動はあくまでも、途中、次の世代への橋渡しの存在であるという、もっとも、ずっと、長い間、次の世代への橋渡しの時代が、まだまだ、長く続くだろうと考えているという。
本当に、理想的な世の中になるには、まだまだ、長い年月がかかるだろうという。
ただ、今よりも良い世の中になる可能性はある。それが、未来にあるとしたら、現在、出来るところを、現在で、もっとも良いと思われることをしておくだけであるという。
もっとも良いと思われることをしておくこと。それが生きる指針であるという。
それは、未来に繋がる存在があるということ。だから、生きるのであるという。
2008年8月9日土曜日
珈琲はどこへ行った?
昨日のことである。
帰ってきた父は、夕食後、いつものように、2階の自分の書斎に閉じこもって、なにやら、読書やら、創作やらをしていたようだ。
けれど、夜中に降りてきて、居間やら、食堂やら、廊下やらをうろうろし、その後に、美樹のいる1階の書斎にやってきた。
珈琲がないない、どこにあるのだろうと騒いでいる。
2階で飲んでいた途中のペットボトルを、夕食のときに、1階に持ってきたと思うのだけれども、どこにおいたか忘れてしまったのだという。
やれやれである。
それなら、たぶん、冷蔵庫の中でしょう。
父は、素直に、冷蔵庫を開けてみた。
あった。
そうでしょう。夏は、飲み物は、冷蔵庫に有るのは普通なのだ。
父、太郎のように、お腹が冷えるからかしらないが、冷蔵庫で冷やさずに飲むから、冷蔵庫を確認しないほうが、おかしな存在なのだ。
帰ってきた父は、夕食後、いつものように、2階の自分の書斎に閉じこもって、なにやら、読書やら、創作やらをしていたようだ。
けれど、夜中に降りてきて、居間やら、食堂やら、廊下やらをうろうろし、その後に、美樹のいる1階の書斎にやってきた。
珈琲がないない、どこにあるのだろうと騒いでいる。
2階で飲んでいた途中のペットボトルを、夕食のときに、1階に持ってきたと思うのだけれども、どこにおいたか忘れてしまったのだという。
やれやれである。
それなら、たぶん、冷蔵庫の中でしょう。
父は、素直に、冷蔵庫を開けてみた。
あった。
そうでしょう。夏は、飲み物は、冷蔵庫に有るのは普通なのだ。
父、太郎のように、お腹が冷えるからかしらないが、冷蔵庫で冷やさずに飲むから、冷蔵庫を確認しないほうが、おかしな存在なのだ。
2008年8月3日日曜日
汝、殺すなかれ2
父、四季が岳太郎がいう。
自分を不当に高く評価することや他者を不当に貶めることは、それ自体が、不正の源である。
もちろん、何事にも許容範囲がある。許容できる範囲とは、あいまいな表現で別の解釈の余地を残すものである。
その余地を残さないのは、許容外である。
もし、存在と言うことについて、許容範囲内と許容外を区切るならば、殺人を犯し、他者の生存を抹消することは、許容外ということに当たるだろう。
しかも、許容外と言う以上に、存在否定である。
人間は、人間関係で、他者との関係を成り立たせている。そのあり方を否定するのなら、自己否定か、他者否定か、関係性否定の三つのどれかの否定である。
関係性否定が出来る状況であれば、関係性を否定すればよい。
このところの、他者への殺傷事件は、関係性のない人への殺傷であり、それ自体は、己の行為の規定にかかわる問題である。
自己の行為責任に関して、他者の存在という関係で、自己の行為を規定できない存在は、社会性という点で、自己規律できていない存在である。
夏の暑い日、ますます、暑くなることをいう、父であった。
自分を不当に高く評価することや他者を不当に貶めることは、それ自体が、不正の源である。
もちろん、何事にも許容範囲がある。許容できる範囲とは、あいまいな表現で別の解釈の余地を残すものである。
その余地を残さないのは、許容外である。
もし、存在と言うことについて、許容範囲内と許容外を区切るならば、殺人を犯し、他者の生存を抹消することは、許容外ということに当たるだろう。
しかも、許容外と言う以上に、存在否定である。
人間は、人間関係で、他者との関係を成り立たせている。そのあり方を否定するのなら、自己否定か、他者否定か、関係性否定の三つのどれかの否定である。
関係性否定が出来る状況であれば、関係性を否定すればよい。
このところの、他者への殺傷事件は、関係性のない人への殺傷であり、それ自体は、己の行為の規定にかかわる問題である。
自己の行為責任に関して、他者の存在という関係で、自己の行為を規定できない存在は、社会性という点で、自己規律できていない存在である。
夏の暑い日、ますます、暑くなることをいう、父であった。
2008年8月2日土曜日
汝、殺すなかれ
父、四季が岳太郎、がいう。
若い人には、その存在を導いてくれる師の存在があるかないで、その人生が大きく左右されるだろう。
人は、自分の事を他人よりも、良い存在と思う傾向がある。それは、特に、自分が得意だとか、好きだとか思っている部分に関して、人は、自分が優れていると思いたがる強い傾向がある。
この思いがあるからこそ、その先を目指すという意志・行為にもなり、新しいものを目指そうとする原動力にもなる。けれども、他社との比較ということでは、自分自身を優れていると思うことで、他者を貶めて評価することにもなる。つまり、不当に他者を低く見下ろすのだ。
正当性の根拠を求めるならば、その道の大家となった存在であれば、他者も、過去の実績から、その大家の発言に一目置かざるを得ない。けれども、根拠なき、若いものの発言は、たとえ正当なものであっても、軽んじられて扱われる傾向がある。
社会は、すでに、出来上がっている。若者はその出来上がっている社会に、新たに入り込む新参者である。新参者は、既に社会の一員にいるものの比べ、いつでもハンディキャップを負っている。新参者であるということは、その社会の状況について知らないだろうという他者の先入観があるからである。
子供が、大人になるまでの間に、すべきことは、自分自身の身近に、尊敬できる人生の師を見つけることである。そして、生きるうえでの指針を絶えず、考えさせてくれる存在という師を身近な存在として得ておくことである。
何をしたら良いのか分からないとき、正の方向のヒントをくれるはずである。
父、四季が岳太郎は、夏の暑い日に、こんなことを言っていた。
若い人には、その存在を導いてくれる師の存在があるかないで、その人生が大きく左右されるだろう。
人は、自分の事を他人よりも、良い存在と思う傾向がある。それは、特に、自分が得意だとか、好きだとか思っている部分に関して、人は、自分が優れていると思いたがる強い傾向がある。
この思いがあるからこそ、その先を目指すという意志・行為にもなり、新しいものを目指そうとする原動力にもなる。けれども、他社との比較ということでは、自分自身を優れていると思うことで、他者を貶めて評価することにもなる。つまり、不当に他者を低く見下ろすのだ。
正当性の根拠を求めるならば、その道の大家となった存在であれば、他者も、過去の実績から、その大家の発言に一目置かざるを得ない。けれども、根拠なき、若いものの発言は、たとえ正当なものであっても、軽んじられて扱われる傾向がある。
社会は、すでに、出来上がっている。若者はその出来上がっている社会に、新たに入り込む新参者である。新参者は、既に社会の一員にいるものの比べ、いつでもハンディキャップを負っている。新参者であるということは、その社会の状況について知らないだろうという他者の先入観があるからである。
子供が、大人になるまでの間に、すべきことは、自分自身の身近に、尊敬できる人生の師を見つけることである。そして、生きるうえでの指針を絶えず、考えさせてくれる存在という師を身近な存在として得ておくことである。
何をしたら良いのか分からないとき、正の方向のヒントをくれるはずである。
父、四季が岳太郎は、夏の暑い日に、こんなことを言っていた。
登録:
投稿 (Atom)