2008年4月29日火曜日

ガーベラの花の木とバナナの匂いの木

 今年は、玄関先に、初めて花の咲いた木がある。二本あるけど、そのうち、一本の木の日当たりの良い部分だけに、10個くらい、花が咲いた。
 父に、「なんていう木?」と聞いたら、「10年くらい前に、植えたものだから、名前は忘れた」という。外国の木で、温かいところに育った木だと記憶しているという。
 それじゃあ、命名だ。それで、「ガーベラの木」と名づけた。だって、花がガーベラなんだもの。大きさは、数センチ、色は赤、赤といっても、真っ赤ではなく、ピンクがかっている赤だ。花びらは細長いのが二十枚くらいが輪をなして並んでいて、余り開かないでの三角錐のような形。その中は、30個くらいのひげ上の突起があり、これも赤色だけど先端が黒い。花びらを包むがくは黄色身を帯びた白である。温かい日差しのときのほうが、花びらが開いているように見える。1、2週間くらい咲いていてから花びらが散った。
 この今年初めて咲いたガーベラの木のとなりには、バナナの匂いの木と呼んでいる木がある。その名のとおり、花が一斉に咲くころは、バナナの匂いを放つ。一つの花は、それほど匂わないのだけど。この木は、毎年、花を咲かせている。茶色のざらざらした感じの蕾は割れると、クリーム色で、周辺の部分がけが紫色がかった花びらが現れて開く。この木の花は、100個くらいは、一斉に咲く。余り綺麗ではないが、一斉に咲くと、かすかに、バナナのにおいがするんだ。この花の名も、父は、忘れたという。
 父曰く、花は名前で鑑賞するのではなく、単純に、姿を愛でるのがよいんだそうな。

2008年4月27日日曜日

本質であれ

 太郎の口癖に、物事の本質を見極め本質であろうとすることが大切であるという言葉がある。
 石は石であること。猫は猫であること。人間は人間であることが本質なのだという。
 石は、自然に石だけど、たとえば、人間が絵を施すことで、それは、人間にとって、石ではなく絵になってしまう。でも、本質は、認識する柄が描いていある石であるということで、石であるということが本質なのだという。
 猫は、猫であり、どうあがいても、人間にはならない。猫らしい猫であるほど、立派な猫なのだという。猫らしい猫とは、人間が思う、かわいらしい猫ということではなく、猫と言う存在のなかで、猫が理想とする存在の猫に近い猫が、猫らしい猫なのだという。
 そして、人間である。人間が人間らしい人間になることが人間としての人間らしい生き方であると父は言う。
 そして、人間らしいことをいうことを自分なりに見つけることが人間らしい着方なのだという。
 だって、人間は、何も知らないところから、いろいろなことを経験し、経験したことを認識し、その認識の蓄積をもとに、自分の行動をきめてゆく。この世の中のことを認識することから、自分の行動を決めるという行為そのものが人間らしいことなのだというのだ。
 で、何をしたらいいの? と聞くと、それを、自分で考え、決めることが大切なのだという。
 ねえ、本当に大切なことを知っていっているの?

2008年4月26日土曜日

「死神の精度」の言葉遊び

 最近、山荘では「死神の精度」の言葉遊びというのが、流行っている。というか、父だけが遊んでいる。
 たとえば、
 「頑張るぞ」というと、「張るのはいいけど、頑て何か知ってるの?」とかいうので、「頑って何?」というと、「鈍い、愚か、悪い」などとけなすので、怒ったら、「『鈍い、愚か、悪い』は、頑張るの『頑』と言う字の意味だ」と切り捨てられた。ちぇ、ちょっと前までは、「ジャンバラヤ」などと駄洒落を言っていただけなんだろうが!
 あるいは、
 「挙句の果ての成れの果て」とか言うと、「いきなり、挙句じゃ終わっちゃうから発句もいってよ」などというので、「ほっく?」とか言うと、なんのことだか、れんかがどうのこうのとか芭蕉がどうのこうのとかいいだす始末。
 はたまた、
 「死神の精度」の言葉遊びを続けているので、「あくまでも、続ける気か?」とかいうと、「悪魔じゃないもん」などと言い返す。まあ、天使じゃないだろう。
 ま、このごろ、そんなことで、一人で悦にいっている父であった。

2008年4月20日日曜日

山荘の孤独な住人

 父、太郎には友達がいない。
 まず、電話がかかってくることがない。家の電話にも、携帯にもかかっては来ない。すくなくとも、かかってきたことを見たことがない。携帯なんか持っている意味がないと思うけれど、受けるのではなく、かけるには必要らしい。最近は、電話ボックスが少なくなったから。電話も来ないし、手紙も来ない。ましてや、友達が尋ねてきたこともない。なんと、一度も見たことがないのだ。
 「友達いないの?」とたずねてみると、「いないよ」と答える。
 太郎曰く、孤独に強い体質なんだそうだ。友達もいない上、テレビもみないし、ラジオも、たまに車に乗ったときしか聞かないようだ。少々、インターネットで情報収集することがあるようだけれど、それも、使うのは、休みの日くらいだ。そんなわけで、世間にも疎いのではないかと思うのだけれでも、案外そうでもない。太郎曰く、若いときに勉強しておけば、世の中はそんなに変わるものではないから、大丈夫なんだらしい。まあ、一応、生活できているから、あながち、あたっていないわけではないのかもしれない。
 太郎は、流行には無頓着、収集しているものも、これといってない。質素で簡単で単純でめんどくさくないことがいいとおもっているらしい。だから、きるものも寝巻きと普段着とお出かけ用の3パターンだ。もっとも、お出かけ用は、季節によってや用事によってやはり3パターンくらいある。そのパターンの姿は、ここ数年、変わっていない。太郎曰く、モノを大切にすることは良いことだという。
 ずっとこんな生活に、最近は感化されつつある。美樹も、都会の人の多さ、人混みがいやになってきている。
 

2008年4月19日土曜日

四季が岳太郎の奇妙な書

 今日は、父、太郎の著作を紹介しよう。といっても、実は、一冊も読んでいないので、父から聞いた断片的な情報をまとめたものに過ぎないのだけれど・・・。父は、既に、13冊もの本を書いている。

 四季が岳太郎の著作一覧

 天津日継制による古代倭国統一場理論
 和歌極秘伝による万葉言霊歌遊戯理論
 歴史ミステリーのみる万葉言霊歌解析
 隠和歌詠みによる源氏物語の真相解析
 古代倭国統一場理論 卑弥呼の時空
 隠俳諧詠みによる奥の細道の真髄解析
 言葉遊びで綴る倭歌二千年の歩み
 言葉遊びの歌詠み処方箋奥の細道
 漱石、龍之介、賢治、乱歩、そして謎解き
 我が愛しのアイリーン
 星の少年の詩的哲学
 僕と鼠と羊の物語
 名無し探偵の憂鬱な日々

 こんなタイトル、見るだけでも、難しそうだし、ぱらぱらとめくると、やはり難しそうで、読むのを止めた。でも、それでは紹介にならないし、紹介すれば、ちょっとは売れるかもしれないので、紹介しよう。

 古代倭国統一場理論は、父曰く、画期的な解釈だという。古代の神々、つまり、王家の記録、それは、神話の形での伝承なのだけれど、大きな間違いがあるんだって。その間違いは、本来、一つの王家のことなのに、登場する神の名前や王の名前がまったく別の名前で書いてしまっているために、別の神話に見えるだけに過ぎないということだそうなんだ。なんでも、天照大神の王家のことと、神武天皇(はじめての天皇だって)の王家とは、同じなんだって。実は、同じ事を、海幸彦の一族が記録したものと、山幸彦の一族が記録したものなのに、間違えているんだって。信じられる? 父曰く、昔の偉い人は、幾つもの名前で呼ばれていたし、その名前も、伝承のうちに変化してしまったんだって。
 万葉言霊歌理論は、和歌の中に潜む別の言葉は、神の言葉であると昔の人は信じたということが基本だって。たしかに、ある言葉の中に、たまたま、別の言葉を見つけることってあるよね。でも、それが神のなせる業と、昔の人は信じていたんだって。二とが意識せずに発した言葉は神の声であるらしい。言霊の正体だという。
 それが、やがて、人が意識的に、和歌の技法として作り上げたことで、言葉遊びになっていったんだって。言葉に二重三重の意味を持たせるということで、言葉に重みを持たせることが高度な言葉の使い方で、源氏物語の短歌や奥の細道の俳句には、ふんだんにその技法が使われているということらしい。
 詩や歌や句に、いろいろな遊びを施す技術は、古代から延々と続いていて、やがて、物語としても使用されることになるという。父は、その表とは異なる隠れた部分こそが、物語の重要な部分であることがあるのだという。しかも、その重要な部分がいまだに語られないままのことが多いのだという。解釈は一つではないかもしれないが、一つの解釈を施してみたものが、「倭歌二千年の歩み」や、「そして謎解き」であるらしい。
 物語をどのように読み解くか、人の成長や生き方という観点から、物語を見直したのが、「名無し探偵」と「星の少年」であるのだという。さらに、物語の解釈に遊びの要素を加えて、新たな物語を作ってみたものが、「アイリーン」と「僕と鼠と羊」なのらしい。
 太郎曰く、歴史や古典や和歌や文学やミステリーと対象としているものはいろいろだけれど、考え方はそんなに違わない。ということらしい。
 今日は、難しくて、よく分からないことを書きすぎたので、疲れた・・・。

2008年4月13日日曜日

白髪鬼

 父、太郎は、髪が白である。数年前は、髪を染めていたが、数ヶ月に一度程度、染めるだけだったので、白、黒、茶の三色であった。けれども、此処のところ、染めもせず、ほとんど白髪となっている。白くなっているので、人ごみの中で、探すのには重宝する。
 本人曰く、背は、170cm2、体重は、63kgである。数年前は、一時期、80kg近くあったらしいが、ダイエットして、半年で、20kgくらい減量に成功した。食べる量を減らして、独自の体操をして、体重を毎日、グラフにつけ、減っていく推移を楽しんでいたら、標準体重に落ち着いたらしい。
 本人曰く、会社に入社したときの背広が着れるようになったぞ、と威張っていた。
 まあ、一度決めたなら、とことん、本人が満足するまで、実行するという性格の持ち主である。だから、博士などという称号をもっていたりするのだ。博士といっても、医者ではなく、理学博士というものらしい。
 父は、数年前までは、某大手化学メーカーの研究所で働いていてたようだが、此処のところ、東京への勤務に変わったようで、遠くなったぶん、平日は、朝早くに出かけている。名刺も、二つ持っていた。問いただしてみると、二つの会社に籍があるなどという、そんなことってあるのか?
 休日は、あやしい本を、執筆をしたりするが、執筆は、あくまでも趣味の領域らしい。本人曰く、趣味だから、自由気ままに、好きなことを書くことができる、という。でも、まあ、二つ目の仕事にカウントしてしまおう。
 しかも、たまにではあるが、それ以外にも、「仕事」といって、なにやら、出かけたりする。地元の会社から、なにやら、届け物が届いたり、電話や、FAXがあったりする。このへんは、あやしい! どうも、三つ目の仕事があるようなのだが、休日に何の仕事をしているのだ?
 しかも、最近、本人曰く、今度、秋には、大学で、講師をすることとなった、という。四つ目の仕事のようだが、ますます、あやしい! げっ、いったい、何を教えるというのだ?
 父、太郎は、幾つもの顔があるようで、なにかと、得体の知れないところがあるのである。

2008年4月12日土曜日

桜に鶯が似合う

 このところ、1週間ほど、鶯の鳴き声が毎日のように、それも、一日中鳴いている。温かくなってきたから、鳥も鳴きやすいだろう。
 鶯は、「ほー、ほけきょ」のあの鳥である。よく聞いてみると、鳴き方が、微妙に違う。「ほー、ほけきょ」の「ほー」のところが、微妙にビブラートのかかり方が異なる。「けきょ」だけ鳴くときもあるし、それに、なんと形容したらいいかわからないけれど、「ほけきょ」のない別の鳴き方もある。たぶん、鳴き方にも違いがあるのだろうな。
 たしか、昔の人は、「梅に鶯」といったと思う。菅原道真の歌にも知られるように、花といえば、梅の時代があったのだそうだ。(父、太郎が言っていた)でも、梅の時期には鶯の声を聞かなかった。四季が岳山荘にも梅もあるけれど、梅が咲くのは、三月の上旬のころで、まだ寒い。だから、梅の咲いたのは分かっているけれど、それほどまじまじとは見なかった。それに比べ、桜は、温かくなってから咲く。先週が桜の見ごろだったけど、これからは、桜も、八重桜が咲く。
 四季が岳山荘では、桜の花の色と、鳴く鶯の声がハーモニーする。鶯は、梅ではなく桜に似合うと思う。
 桜咲き、鶯鳴きて、酒旨し(父、太郎作)

2008年4月6日日曜日

もも七変化

1 「家政婦は見た」となるもも
 父、太郎が外出するとき、見送りに行くのだが、玄関の隅っこにあるコート掛けのの影から、そっと、太郎を見ている。
2 「飾り窓の猫」となるもも
 温かいときには、窓とカーテンと隙間に入り、置物状態となって身じろぎもせずに、外を眺めている。
3 「アリと対決した猪木」となるもも
 父、太郎がももにちょっかいを出すと、ももは、仰向けになり、父がちょっかいを出す手に攻撃を仕掛ける。その姿を見て、父が、形容した言葉だ。何のことだ?
4 「ほふく前進する」もも
 父、太郎と遊んでいることがるのだけれども、飽きてくると逃げようとする。そのときには、胴長の体を低くして、ゆっくりと父がなでている状態のまま、匍匐前進するかのように前進を始める。
5 「ケンシロウ」になるもも
 父、太郎とじゃれていることがあるけれど、時として、戦いとなる。そのときには、行事良い体勢から、すばやく前足をのばし引っかく。ときとして、「ヴぁお」と規制を発するときもある。
6 「猪突する」もも
 若いとき、ももは、誰かが来たり、出かけるときに、玄関が開くと、やってきては、扉の隙間から一気に外に駆け抜けた。いのししと化すのである。
7 眠り猫
 でも、ももは猫である。昼間でも寝ているときがもっとも多い。

2008年4月5日土曜日

新聞はどこに隠す?

 ある休日の夕食時のこと、父、太郎が新聞はどこか? と聞いた。
 祖母、布希が、郵便受けから持ってきたから、いつものところにあるよ、といった。いつものところとは、居間のベッドの上なのだけれども、わたしが見たけれども、なかった。太郎は、昨日までの新聞を入れる古新聞入れの紙袋の一番上を見てみたが、それは、昨日の新聞だった。
 それなら、玄関の靴箱の上に置いたままだったかなあと、祖母がいうので、今度は、父が見に行った。戻ってきた父はなかったといった。
 それなら、わたしのへやかなあ、と祖母がいいみたが、なかった。それから、周辺を探してみたけれど、新聞はなかった。
 今日の新聞の紛失事件の発生である。
 そこから、事件は迷宮入りの様相を呈するのかと思いきや、父が、わかったといい、行動に移った。
 古新聞入れの昨日の新聞を取り上げ、次に、広告の紙を取り出し、さらに、その下の新聞を取り出した。
 その新聞は、今日の新聞であったのである。
 以上が、今日の新聞紛失事件の顛末である。