山荘の人気者は、「もも」である。猫である。ロシアンブルーである。小心者である。だから、たいてい、見えにくいところに寝ている。たとえば、カーテンの裏の日当たりの良いところ、たとえば、保護色となるような布地の上、たとえば、棚の上部である。季節によっても、気候によっても、一日の時間帯によっても、居所が変わる。居心地の良さが変わるのだろう。
もう一度言うが、「もも」は、小心者である。だから、ちょっとした音にも驚き、逃げ隠れる。小さめの音には、逃げなくとも身構える。かすかな音には、身構えなくとも、音の方向を凝視する。だけれども、「もも」は、ポリ袋が好きである。ときたま、すりよって、じゃれるように、すりすりとポリ袋の音を立てる。
「もも」は、淋しがり屋でもある。山荘の人が来ると、おきてきて、わざとばたばたと走ったりする。人の視界に入り、存在を強調する。それから、近寄ってきて、接触する。
でも、「もも」は小心者である。山荘に来る人には、隠れる。隠れて、じっとしている。もっとも、この山荘自体も世の中から隠れているようなものなのだけれども、「もも」は、さらに隠れているのだ。
2008年3月29日土曜日
舞い散る桜の花びらの数だけ神様がいたらいいのに
桜の季節となりました。山荘にも何本か桜があります。一番最初に咲くのが、濃い桃色の桜、次が、薄い桃色、それから、やはり桃色の八重桜、変り種だけど、秋にも咲く桜もあります。
今日は、わずかな風がそよぎ、桜の花びらが、わずかに流されて、散っています。
今の季節は、水仙、チューリップ、さくらんぼ、が終わり、辛夷、花桃、椿、沈丁花、三椏、小手毬、木瓜、アカシア、ムスカリ、クリスマスローズなどなど、満開です。
この季節は、鶯の囀りで、朝、起こされます。日中には、雲雀も囀り、名前も知らない鳥が遊ぶ姿を見ることも出来ます。
今日は、適度に、日も差し、お花見日和です。
今見ごろの桜の木は、前から此処にあって、ふた抱えくらいの太さがある、この山荘の守り神のような木です。ちょうど見ごろ、やがては、絶え間なく、風に花びらが舞い踊ります。
舞い散る桜の花びらの数だけ神様がいたらいいのに
今日は、わずかな風がそよぎ、桜の花びらが、わずかに流されて、散っています。
今の季節は、水仙、チューリップ、さくらんぼ、が終わり、辛夷、花桃、椿、沈丁花、三椏、小手毬、木瓜、アカシア、ムスカリ、クリスマスローズなどなど、満開です。
この季節は、鶯の囀りで、朝、起こされます。日中には、雲雀も囀り、名前も知らない鳥が遊ぶ姿を見ることも出来ます。
今日は、適度に、日も差し、お花見日和です。
今見ごろの桜の木は、前から此処にあって、ふた抱えくらいの太さがある、この山荘の守り神のような木です。ちょうど見ごろ、やがては、絶え間なく、風に花びらが舞い踊ります。
舞い散る桜の花びらの数だけ神様がいたらいいのに
2008年3月23日日曜日
雨男に雪男に蜘蛛男に蠅男に蛇女
父、太郎も、それでも、最近は、あまり引きこもらなくなった。
スランプなのかもしれないので、「スランプなんでしょう」と尋ねたら、「何か、惹きつけられるぐっとくる面白い謎、謎がないんだよね。謎が」なんて、三つも形容詞を付けた謎を強調して嘆いていた。どうも、最近、面白い題材が見当たらないようだ。「最近、面白いものない? 面白い本とか出来事とか、知らないかなあ」なんて、お問い合わせをよく受ける。
けど、めんどくさいので、いつも、「ない」の一言で済ませている。
いつぞやは、「落書でも、苦しくなってきたなあ」なんて、訳の分からないことをいっていた。何を言っているかわからなかったが、ちょっと考えて、落書きは楽書きということらしいと思った。親父ギャグだな。
父、太郎は、言葉に興味がある、たぶん、あると思う。近頃は、「死神の精度」にでてきた、「醜いと見えにくい」、「雨男と雪男の違い」なんかを面白がって話してくれた。そんなに面白いとも思えないが、とにかく、面白がって話す。 だから、そんなことが、面白いんだろうな。
「そうだな、付け加えれば、蜘蛛男なんてのもありだろう?」ていったら、「なるほど、それなら、蠅男なんてのもいたな」なんていう。
「そんなら、蛇女だっているぞ!」でも、蠅男って誰だ?
そうだ! 本は、まだ、読んでないけど、でも、さきに映画を見ちゃったもんね。死神の精度!
こないだは、卒業式シーズンだからか、巷で、いかにも卒業式にゆくのにいそいそと歩いていた羽織袴の女の人を、ぼーっと見ながら、「「かいさんのつきのつぎのつきはかいこうのつき」なんて、早口言葉にどうだろう?」なんて、まったく見当はずれのことをぼそっと言った。
いったい何を考えているんだ??
まったく、意味不明なので、「どういうこと?」と尋ねたら、おもむろに、肩に掛けていたバッグから、鉛筆とメモ用紙を取り出し、「解散の月の次の月は邂逅の月」と書いて、「3月の次は4月と言うこと。分かるよね」だって。
書いてまで説明しなくてもいいんだよね。四の五の言うな。いや、書くな。
スランプなのかもしれないので、「スランプなんでしょう」と尋ねたら、「何か、惹きつけられるぐっとくる面白い謎、謎がないんだよね。謎が」なんて、三つも形容詞を付けた謎を強調して嘆いていた。どうも、最近、面白い題材が見当たらないようだ。「最近、面白いものない? 面白い本とか出来事とか、知らないかなあ」なんて、お問い合わせをよく受ける。
けど、めんどくさいので、いつも、「ない」の一言で済ませている。
いつぞやは、「落書でも、苦しくなってきたなあ」なんて、訳の分からないことをいっていた。何を言っているかわからなかったが、ちょっと考えて、落書きは楽書きということらしいと思った。親父ギャグだな。
父、太郎は、言葉に興味がある、たぶん、あると思う。近頃は、「死神の精度」にでてきた、「醜いと見えにくい」、「雨男と雪男の違い」なんかを面白がって話してくれた。そんなに面白いとも思えないが、とにかく、面白がって話す。 だから、そんなことが、面白いんだろうな。
「そうだな、付け加えれば、蜘蛛男なんてのもありだろう?」ていったら、「なるほど、それなら、蠅男なんてのもいたな」なんていう。
「そんなら、蛇女だっているぞ!」でも、蠅男って誰だ?
そうだ! 本は、まだ、読んでないけど、でも、さきに映画を見ちゃったもんね。死神の精度!
こないだは、卒業式シーズンだからか、巷で、いかにも卒業式にゆくのにいそいそと歩いていた羽織袴の女の人を、ぼーっと見ながら、「「かいさんのつきのつぎのつきはかいこうのつき」なんて、早口言葉にどうだろう?」なんて、まったく見当はずれのことをぼそっと言った。
いったい何を考えているんだ??
まったく、意味不明なので、「どういうこと?」と尋ねたら、おもむろに、肩に掛けていたバッグから、鉛筆とメモ用紙を取り出し、「解散の月の次の月は邂逅の月」と書いて、「3月の次は4月と言うこと。分かるよね」だって。
書いてまで説明しなくてもいいんだよね。四の五の言うな。いや、書くな。
2008年3月22日土曜日
一葉の写真から
春は暖かいけれど、花粉があるから、夏のほうが好き。冬は寒いし、秋のほうが月が綺麗だから好き。
春夏秋冬といえば、四季、四季といえば、四季が岳太郎。先日の、父の誕生日には、有名な探偵作家たちの写真をプレゼントした。そしたら、とたんに、いきなり、引きこもりになった。引きこもりになるときは、かならず、、新しい作品を書くときだ。古い本を引っ張り出して読んでいたり、あげた写真を眺めたり、ネットで検索したりしていた。データを書斎に持ち込み、それに何やら一覧表のようなものをこしらえていたりしていたなあ。たぶん、今度の作品は、本格推理に関するものであると思う。だって、本格ものといわれる人々の写真だったのだし、パソコンを覗いてみたら、検索のキーワードも、それらの作家の名前だったのだから。
太郎は、引きこもるときは、ジャージにティーシャツというラフな格好のままで、何本ものペットボトルコーヒーと、何箱ものタバコを用意しておいて、食事以外は出てこない。時々、知らない音楽が流れてきたりする。それで、終日、キーボードをたたきながら、文章を作っているようだ。
きっと、また、訳の分からない小難しい理屈を考えているんだろうな。でも、あの写真から、どんなものを書き始めたのだろう? こないだ、どんなの書いているの? と聞いてみたら、本格推理とはなんだと思う? なんて、逆に問いかけてきた。犯人当ての謎解き小説でしょう、と答えたら、そうか、なんていって、また、引きこもってしまった。
よくもまあ、あんなに売れない本ばかり書けるかと感心する。そういうと、売れる本が良い本と言うわけではない。良い本とは、これまでにない新しいことを感じさせてくれる本である。しかも、新しいこととは、これまでにはないことなのだから、いきおい、専門的な領域の話になるし、大衆に売れるということとは、相容れない要素を持つものなのだよ、なんて、のたまっていた。
まあ、素人にも分かりやすく書くことも大切だろうに。まだまだだね。
どうでもいいけど、訳の分からない理屈を振り回して面白くもない本ばかり書くために、そんなに引きこもっていると、また、太るぞ!
春夏秋冬といえば、四季、四季といえば、四季が岳太郎。先日の、父の誕生日には、有名な探偵作家たちの写真をプレゼントした。そしたら、とたんに、いきなり、引きこもりになった。引きこもりになるときは、かならず、、新しい作品を書くときだ。古い本を引っ張り出して読んでいたり、あげた写真を眺めたり、ネットで検索したりしていた。データを書斎に持ち込み、それに何やら一覧表のようなものをこしらえていたりしていたなあ。たぶん、今度の作品は、本格推理に関するものであると思う。だって、本格ものといわれる人々の写真だったのだし、パソコンを覗いてみたら、検索のキーワードも、それらの作家の名前だったのだから。
太郎は、引きこもるときは、ジャージにティーシャツというラフな格好のままで、何本ものペットボトルコーヒーと、何箱ものタバコを用意しておいて、食事以外は出てこない。時々、知らない音楽が流れてきたりする。それで、終日、キーボードをたたきながら、文章を作っているようだ。
きっと、また、訳の分からない小難しい理屈を考えているんだろうな。でも、あの写真から、どんなものを書き始めたのだろう? こないだ、どんなの書いているの? と聞いてみたら、本格推理とはなんだと思う? なんて、逆に問いかけてきた。犯人当ての謎解き小説でしょう、と答えたら、そうか、なんていって、また、引きこもってしまった。
よくもまあ、あんなに売れない本ばかり書けるかと感心する。そういうと、売れる本が良い本と言うわけではない。良い本とは、これまでにない新しいことを感じさせてくれる本である。しかも、新しいこととは、これまでにはないことなのだから、いきおい、専門的な領域の話になるし、大衆に売れるということとは、相容れない要素を持つものなのだよ、なんて、のたまっていた。
まあ、素人にも分かりやすく書くことも大切だろうに。まだまだだね。
どうでもいいけど、訳の分からない理屈を振り回して面白くもない本ばかり書くために、そんなに引きこもっていると、また、太るぞ!
2008年3月20日木曜日
捨てる神あれば、拾う神あり
この季節は、変わり目の時です。ようやく温かくなり始めてきたけれど、父の奇妙なことといったら、相変わらずです。
こないだは、ドライブしてて、話が私の進学の話になって、「とりあえず、入れたからいいじゃん」っていったら。
父、太郎が、「捨てる神あれば、拾う神ありだね」なんていう。
「いろんな神様がいるんだ?」
そしたら、「貧乏神に疫病神、それに死神もいるからね」だって! 失礼しちゃうわ。
死神といえば、「デス・ノート」の死神も、それから、「死神の精度」の死神も奇妙だ。「デス・ノート」の死神は、林檎が好物だった。林檎といえば、アダムとイブの林檎だよね。イブは林檎を食べて、自分の羞恥心に目覚め、その挙句、アダムと一緒に楽園から追放されたんだったよね。唆したのは、にょろにょろした蛇だ。「デス・ノート」の死神が林檎が好物と言うのは、意味深だよね。
それから、「死神の精度」、「精度って何」と、父、太郎に聞いたら、「誤差、真のものとそれを似せたものや似たものとの差の程度のこと」なんて、かえって、分からなくなるようなことをいう。そんなことはおいといて、こちらの死神、言葉が変だ。醜いを見えにくいと勘違いしたり、雨男と雪男を比較したり、年貢制度が今もあるかと疑問に思ったりしてた。死神の言語感覚は、勘違いによっているように思うけれど、勘違いで生き死にが決められたらたまんないよねえ。
死神のイメージは、黒装束で鎌を片手に怖いイメージだったけれど、今は、死が怖いものではなくなったのかなあ。医療が進歩して、人の死に様も病院でしか見かけないし、人の死も形式的な儀式でしかイメージできないし、生と死が曖昧になってきているんだろうな。
でも、死神は、死神が、生死を判定するのに、一応、その人物の生きたいという気持ちを聞いて、判定を下しているのだと思う。けれども、そんな判定なんて、何の意味がある? この本を読んだら、死神とは無関係に、生き残るものは生き残るし、死ぬものは死ぬような気がしてきた。死神の力なんて、怖いものじゃない感じだな。
でも、こんど、「死神の精度」が映画になったようだから、見てみようかな。
こないだは、ドライブしてて、話が私の進学の話になって、「とりあえず、入れたからいいじゃん」っていったら。
父、太郎が、「捨てる神あれば、拾う神ありだね」なんていう。
「いろんな神様がいるんだ?」
そしたら、「貧乏神に疫病神、それに死神もいるからね」だって! 失礼しちゃうわ。
死神といえば、「デス・ノート」の死神も、それから、「死神の精度」の死神も奇妙だ。「デス・ノート」の死神は、林檎が好物だった。林檎といえば、アダムとイブの林檎だよね。イブは林檎を食べて、自分の羞恥心に目覚め、その挙句、アダムと一緒に楽園から追放されたんだったよね。唆したのは、にょろにょろした蛇だ。「デス・ノート」の死神が林檎が好物と言うのは、意味深だよね。
それから、「死神の精度」、「精度って何」と、父、太郎に聞いたら、「誤差、真のものとそれを似せたものや似たものとの差の程度のこと」なんて、かえって、分からなくなるようなことをいう。そんなことはおいといて、こちらの死神、言葉が変だ。醜いを見えにくいと勘違いしたり、雨男と雪男を比較したり、年貢制度が今もあるかと疑問に思ったりしてた。死神の言語感覚は、勘違いによっているように思うけれど、勘違いで生き死にが決められたらたまんないよねえ。
死神のイメージは、黒装束で鎌を片手に怖いイメージだったけれど、今は、死が怖いものではなくなったのかなあ。医療が進歩して、人の死に様も病院でしか見かけないし、人の死も形式的な儀式でしかイメージできないし、生と死が曖昧になってきているんだろうな。
でも、死神は、死神が、生死を判定するのに、一応、その人物の生きたいという気持ちを聞いて、判定を下しているのだと思う。けれども、そんな判定なんて、何の意味がある? この本を読んだら、死神とは無関係に、生き残るものは生き残るし、死ぬものは死ぬような気がしてきた。死神の力なんて、怖いものじゃない感じだな。
でも、こんど、「死神の精度」が映画になったようだから、見てみようかな。
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